理智の封印 第二部
「碧の龍王」
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十一、死線
かすかに空気が震えた瞬間、クインティアは左に飛びざま、水斬りの太刀を薙いだ。
ぴんという小さな太刀の音。彼女の身体をかすめて渦状の魔風が吹き抜け、半焼した天幕を吹き飛ばすと同時に、ランジャ屋の前に弧状の閃光が散った。ガランドルム王の周りの剣鬼たちが、糸の切れた人形のようにばたばたと倒れていく。鋼鉄の胴や首が鮮やかな切り口で切断され、ごろりと転がった。
ランジャ屋の眉がぴくりと吊り上がった。
「ほう。相変わらず、お強いですねえ」
クインティアは無言のままだった。
ランジャ屋には無象剣の斬撃が届いていない。おそらく、特殊な結界で見えない盾を形成しているのだろう。しかし、不思議と不安や恐れはなかった。今日は剣がよく振れている。剣が羽毛のように軽い上に、刃筋に寸分の揺らぎもなく、振っていて気持ちいい。斬撃音こそ小さいものの、今までにない充実感があった。直接打ち込めさえすれば、ブグアヌフの時のように勝機が見い出せるに違いない。
闇に張り詰めていた気がぴくんと動いた。
瞬間、クインティアは敵に向かって飛び出した。地面がぬかるんでいるが、泥が全く跳ねない。
辺りの空気が淡く青白い光を帯びた。数十もの燐光が宙に現れ、虫の群れのように舞いながら、クインティアに殺到する。
クインティアの姿がふっと消え、風琴が鳴るような涼やかな連続音がした。
燐光の群れが散り、一瞬の白熱の炎となって消えた。
「ちっ！」
ランジャ屋の頬が歪んだ。
そこを、炎から飛び出したクインティアが袈裟懸けに切り裂くと、妖術師が蜃気楼のように掻き消えた。
「ふうう。危ない。危ない。…死ぬかと思いましたよ」と、粘着質の声がした。
振り返ると、背後に五人のランジャ屋がにたにた笑っている。それが滑るように移動して、彼女を取り囲んだ。分かれ身の術か何かを使っているのだろう。
「そんな子供騙しが利くと思うか？」
「思いませんよ」
足元に紅の閃光が走り、クインティアを中心に五芒星形の図が浮かび上がった。それぞれの頂点に妖術師の姿があり、外周と内側に円陣と不可思議な記号が金色に光っている。
クインティアは、反射的に飛び退こうとしたが、足が地面に縫い付けられたように動かなかった。
「…くっ」
「細工に少々時間を取られましたが、まあいいでしょう。面白いのはこれからですよ」
ランジャ屋が三本指の右手を突き出すと、その甲に埋め込まれた赤い目が妖しく輝いた。
ぼうっ、ぼうっという音とともに、地面に炎の魔文字が現れた。数は百を超えるであろう。その一つ一つが恐ろしいまでの妖気を放ち、クインティアを包囲している。例え、金縛りが解けても、逃げる隙がない。
クインティアは自身の感覚を研ぎ澄ませた。神経や皮膚感覚、それに気脈の流れは変わりなかったが、身体中の筋肉が石のように硬化していて動かない。足は地に縫い込まれたかのようである。腕も同様。辛うじて、指先だけが動いた。
彼女は、指の力を緩めた。
下段に構えている水斬りの太刀が、ゆっくりと下がっていく。
妖術師が、にたりと頬を歪めた。
「さて、本来なら生きながらじわじわと焼き殺して楽しむところですが、ブグアヌフさえ倒したお嬢さんですからね。ここは敬意を表して、一気に葬って差し上げます。骨まで残さず、燃え尽きてしまいなさいっ！」
魔文字の輝きが、一気に増大した。
水斬りの太刀が、地面に張り巡らされた魔方陣に触れた。
その瞬間、稲妻のような光芒が地面を切り裂いた。星や円形の図形が淡い星屑のように砕け散る。魔文字が閃光とともに燃え尽き、五人のランジャ屋も見えない斬撃に足元から引き裂かれた。そのうちの四つが霧散した。
衝撃で舞い上がった泥水が、細かい霧となって視界を遮る。
そこから、クインティアが黒い流線となって飛び出し、残ったランジャ屋に斬りかかった。
彼女の影が、妖術師の直前で横に急転すると同時に長太刀が切り上げた。
「…！」
妖術師の痘痕の顔が憎悪に歪んだ。結界を支えるため突き出した右手が、甲の眼球もろともに寸断され、緑の粘液とともに跳ね飛んだ。切り返した太刀が音もなくランジャ屋の左肩から右脇に抜けた。
痘痕の顔が憎悪に歪んだ。
「お、おの…れ…」
その唸りが最後であった。その小柄な身体が、二つの肉塊となって崩れ落ちた。
ばち…ばち…ばち…ぱち…と、味気ない拍手の音が薄闇に響き渡った。
見ると、絹の緋衣を着た肥満体の老人が、気味の悪い笑みを浮かべている。
「けっけっけっけ。あれの死角を突くとは、誉めてやろう。確か、ガイラめは『お嬢さん』とか申していたな。顔を見せてみろ」
どこか現実感のない異質な声である。
「…」
「ひひひひ。見せたくないか…」
ガランドルム王が針のように目を細めた。
無音のままクインティアの頭巾が切り裂かれて飛び散った。漆黒の髪がはらりと落ちる。そこに、天界の織姫を気丈にしたような美女が、物怖じもせず睨み返している。
クインティアは、長太刀を正眼に構えた。
それにしても、今の術は何なのだろう。魔力の気配は感じられなかった。辺りの気脈が反応した形跡がない。一体何者なのだろう？
「確かに、女だ。それにしても、その顔、どこかで見た…」
ガランドルム王は、ぶつぶつと虚ろな声で呟いていたが、やがて長い舌をぺろりと出した。
「そうか。あのエルフォンの大帝とやらか。あの時は幻術を被った紛い物だったが、本物はこんなところにいた訳だ」
「何を言っている？」
「くくくく。そうか、なるほど。見えてきたぞ。おまえは、あの生意気な小僧と繋がりがあるのだな。そうか。さしずめ、奥の手とやらは、奴のことであろう？ほう…奴がくるのか。それは面白い。奴には、少なからぬ借りがあるのでなあ。ひっひっひっひ…」
「…」
クインティアは太刀を構えたまま、思考を目まぐるしく回転させた。意味が分かりかけた。恐らく、『小僧』とは魔法使いを指しているのであろう。そして、借りがあるということは明らかに敵同士なのだ。
…まずい。このままでは、魔法使いを不利な状況に立たせてしまう。
「ならば、歓迎の仕度をせねばなるまいな」
その言葉が終わらぬうちに、ガランドルム王の身体から灰色の霧のようなものが滲み出てきて、ぴかっと発光したかと思うと、黒衣を纏った背の高い男が分離して宙に浮かび上がった。ガランドルム王の太った身体が、木偶人形のように生気を失って崩れ落ちた。
男の耳の上には、湾曲した角が生えている。鬼である。その身体から、信じ難いほどの強烈な妖気が放射されている。ブグアヌフの比ではない。
本能的な恐怖から、クインティアの足や手がぶるぶる震えている。背筋を気持ちの悪い冷たい汗が流れ落ちる。きっと、顔には血の気がないに違いない。
長身の鬼が、ぺろりと長い舌を出した。
「ふうむ。やはり、これの方がよいわ。窮屈な人間の身体では、あ奴とは戦えぬのでな。さて、奴を歓迎するために特別に舞台をこしらえようぞ」
長い指をぱちんと鳴らすと、ぬかるんだ地面に無数の奇怪な文字が浮かび上がった。それらが、この本陣一帯の地面を覆い尽くしている。それらの間を円と線が次々に交差し、さらに細かい図形を構成していく。
このまま見過ごしては駄目だ。
今、眼の前で造形されているのは、魔法使いを倒すための罠なのだ。たとえ、この身に代えても、絶対に看過してはならない。もし、このために彼が不覚を取るようなことになれば、死んでも死にきれない。
クインティアは、ぎゅっと水斬りの太刀を握り締めた。
手足の震えが止まった。
肌身離さず持っている胸の星輝珠が、もう一つの心臓のように熱く脈動しているのが感じられた。
暗黒神アゴルの第一の継承者は、古来より闇の支配者ネメアだと語り伝えられている。そのネメアの先兵を務めるのが八部鬼将であり、今、地上で太刀を構えているクインティアを睥睨しているのは、その七位ガドガルヴァであった。言うまでもなく、列侯会議の場で、魔法使いリグローンと一戦を交えた妖鬼である。
ガドガルヴァは、耳まで裂けた口をかっと開き、大地を震わすような声で咆哮した。
「貴様は殺さぬ。殺してしまっては、奴の足枷にはならぬのでなあ」
その間にも、奇怪な陣は見る見る造形を完成させていった。
足枷だと。そんなものにはならぬっ！
長太刀を一閃すると同時に、クインティアは矢のような疾走に移った。
ガドガルヴァの周囲に一瞬の光が散る。斬撃は、ランジャ屋と同様に、何かの力に遮蔽されて届かないようだ。けれども、諦める訳には行かなかった。大地を半ば滑り、急激な方向転換。水斬りの太刀をぱっと大地に触れる。
鋭い衝撃が地面を走り、金色の図形や文字を切り裂いた。それらは、星屑のように一瞬にして消えるのだが、すぐに再生し、元通りの陣を形成して行く。
水斬りの太刀は、空気と同化しているかのように軽かった。刃が静かに見えない速さで閃き、地面を一瞬にして切り刻む。それでも、妖しの図形が素早く再生してくる。
クインティアは稲妻のように急激に向きを変えた。その寸前に、何かが空気にかすかな波紋を残して掠めた。その先の兵糧を積み上げた山が塵となって吹き飛ぶ。
宙に浮かぶ鬼将ガドガルヴァの周囲に弧状の斬撃が走る。
今度は見えた。と、クインティアは思った。
ガドガルヴァという妖魔の力は、恐ろしく強大であるが、冷静さを失ってきたようだ。攻撃のほんの直前に、一瞬の殺気が射すのだ。
来る。
地面を滑るように走るクインティアが、蜃気楼のように揺れたかと思うと、幾筋もの波紋が突き抜け、焼け残った天幕や荷駄を粉砕した。
ガドガルヴァの直前に輝きの薄い閃光が散った。
地面に描かれつつあった魔法陣の形成が、ぴたりと止まった。
クインティアは足を止め、太刀を正眼に構えながら、やや荒く息を継いだ。
鬼将は目をかっと見開いて、地上の剣士を睨みつけた。
その頬に薄っすらと線が浮かび、そこから黒い血がじわりと滲み出た。その傷が見る見る癒えていく。ガドガルヴァは、長い指で頬に触れ、指先に残った液体に目をやった。
「…人族風情が」
そのこめかみに青筋が浮き立ち、ぴくぴくと震えている。
「もう、歓迎の舞台なぞ、どうでもいい。…まず、虫けらを叩き潰してくれる」
その眼が憤怒に染まり、殺気が凄まじいばかりに膨れ上がった。
次の瞬間、細かい紫電を纏った火球が、空中に次々に出現した。大きさは子牛ほど。それが、出現と同時に流星と化し、クインティア目がけて突っ込んでくる。
彼女の姿が再び蜃気楼のように揺らめいた。
幾つかの火球が、見えない斬撃により散る。残りの火球が地上に降り注ぎ、灼熱の炎と爆風を振りまいた。濛々たる土煙が上がる。火球の数がさらに増大したが、蜃気楼のように縦横に移動する影と、火球を途中で飛散させる衝撃波は途切れることがなかった。
「おのれっ！」
鬼将ガドガルヴァの形相がさらに禍々しく歪み、右の手を開いて天に差し上げた。
火球の数が一気に十倍以上に増えた。
ふっと、一瞬、辺りから音が消えた。同時に、空中の火球も幻のように消滅した。
地上では、焼け焦げたぼろぼろの黒装束を纏った女が、依然として長太刀を構えている。その周囲には数え切れないほどの爆裂口が開き、猛烈な蒸気を噴き上げていた。
「…？」
ガドガルヴァは、目をしばたかせ、やがて信じられないような顔になった。
差し上げた右の肘から先がないのである。右手を眼前に近づけてみる。その傷口から噴き出る血が止まり、塞がったかと思うと、そこが急速に盛り上がり、元の手の形に戻った。
鬼将がぎりぎりと歯噛みした。
「ええい。こうなったら、大地とともに消し飛ばしてくれようっ！」
本陣一帯の地面から無数の光芒が迸り、地割れが走った。それが一気に盛り上がったかと思うと、耳を聾する轟音とともに巨大な火柱が噴き上がった。
クインティアは足元に渾身の無象剣を放った。生じた爆風が彼女の身体を上空に吹き上げる。
彼女を起点に網状の光芒が走った。
「捕まえたぞ！」と、鬼将ガドガルヴァが長い舌を出し、勝ち誇った哄笑を響かせた。
その目の前に、光の網に捕縛された黒装束の女がもがいていた。
「ひっひっひ。ここまでだ。骨も残さず消えてしまえ」
その瞬間、ずんと鬼の身体が大きく揺れた。ガドガルヴァの胸が異様に盛り上がっている。それが急に窪んだかと思うと、ぶちぶちっと肉を引き千切るような音がした。
「ぐおっ！」
ガドガルヴァが苦痛に顔を歪めながら後ろを振り返ると、青い髪の男が黒い肉塊を握り締め、不敵な笑みを浮かべていた。不規則に脈打っている肉塊から、蛸足のような管が伸び、鬼の身体に続いている。
「な、何…」
「馬鹿め。消えるのは貴様の方だ」と、冷ややかな声がした。
「ま、待て…」
「ふん」
白熱の閃光とともに、じゅうっと音がして、白煙が上がった。鬼将の身体が細かい灰になって散る。天高く吹き上がっていた火柱が輝きを失い、灰色の霧となって広がりながら沈降し始めた。
馬鹿なのは俺も同じか…。と、リグローンは心の中で呟いた。
その右手の先から、鮮血がぽたりぽたりと滴り落ちている。ガドゥ衆の根拠地であの奇妙な生物に襲われた際に、その足爪から毒を注入されたらしい。治癒の魔法が効かず、出血が止まらないのだ。否、むしろ出血と痛みはひどくなっている。
もし、真正面からガドガルヴァと戦っていたら、勝てなかったかも知れなかった。
そうだ。クインティアだ。
青い髪の魔法使いは、黒髪の剣士の姿を探した。視線を素早く巡らせると、左下方に自由落下していく人影があった。血に塗れた人差し指を向けると、それが淡い水色の光に包まれ、ゆっくりと草原に降下していった。
東の山際が薄っすらと白み始めたが、まだ辺りは仄暗いままであった。
ガドガルヴァが起こした火柱の残り火が、そこかしこの草叢を燻らせている。
クインティアを包んだ光が、草叢にそっと接地すると、儚く散って消え失せた。その傍らを旋風が通り過ると、一人の男が立っていた。
クインティアは、水斬りの太刀を収めようとした。…が、できなかった。
「…？」
指が束から離れない。余りにも夢中で剣を振るっていたので、両手の指が束を握ったまま硬化してしまったらしい。
「どうした？」と、懐かしい魔法使いの声がした。
「…指が太刀を握ったまま離れない」
男が近づき、彼女の指に軽く触れた。指の緊張がすっと解ける。クインティアは、するりと太刀を鞘に収めると、魔法使いの顔に目を凝らした。ぼんやりと顔の造作の輪郭が分かる。目から涙が滲んできた。
リグローンは、クインティアを抱き寄せた。
「腕を上げたな」
「少しだけだ」
クインティアは、魔法使いの胸に顔をそっと付け、その背に手を回した。汗なのか背中の辺りが濡れているのが感じられた。目を閉じて、静かに呼吸をしたが、急に顔を曇らせた。血の臭いがする。まさかと思い、手を引っ込め、指先を嗅いでみた。
間違いない。
クインティアは、はっと顔を上げた。
「魔法使いっ！おまえ、怪我をしているのか。」
「ああ。虫に引っかかれただけだ。…たいしたこ…」と言いかけて、魔法使いは口元を押さえた。ごぼっという音。この暗さでも、口から血を吐いたのが分かった。
「魔法使いっ！」
「…くそ、あの糞爺い。…ぐ…ぐふっ！」
「喋るな。とにかく、手当てしなければ…」
「…う…くそ……」
リグローンは横を向き、草叢に口の中のものを吐き出した。
クインティアは、思考を目まぐるしく回転させた。彼が血を吐くという事態は、よほど深刻な状態に違いない。すぐにも手当てしなければ…。しかし、どうすればいい？すぐに、一人の顔が思い浮かんだ。
彼女は、暗闇に向かって叫んだ。
「ダモン！ダモン！力を貸してくれっ！」
「わしは、ここにおる」
聞き慣れた声が心に直接響いた。眼の前に、橙色の燃えるような霊気がゆらゆら揺れている。
「ダモン！シャアクなら、ダモンの声が分かるはずだ。急ぎ医師や薬師の手配をと…」
「承知」
鳥型の炎がふっと消えた。
黒髪の剣士は、魔法使いに向き直った。
「飛べるか？」
「ああ」
「ならば、もう少しだけ我慢できるか？あの都まで行けば、手当てができるだろう」
「…」
青い髪の魔法使いは無言だったが、二人の周りに旋風が巻き起こり、次の瞬間には空高く舞い上がっていた。
空からは、薄暗い平野が一望できた。
平野の中心の都イタケとそれを取り巻くガランドルム軍の陣地。そこに、敵陣深く進攻しているマメール軍。ガランドルム軍に比べるとマメール軍の兵力は寡少であったが、今、戦闘そのものは終結しつつあった。
ガランドルム軍の殆ど全てが、陣を畳むことなく、ばらばらに退却を始めていたのである。本陣が巨大な火柱により消滅しているのが、誰の目にも明らかだったので、戦意そのものを喪失してしまったのであろう。
けれども、クインティアには、下界の様子をつぶさに観察する余裕はなかった。魔法使いの顔からは血の気が失せ、苦しそうな表情に脂汗が滲んでいる。衣服についた血の染みも先程より広がっている。そのせいか、速度も出ていない。
何とか、保ってくれ。と、クインティアは祈った。
イタケの都がのろのろと大きくなり、北の館が見えてきた。
二人を包み込んだ疾風は、やや蛇行しながら速度を落とし、やがて大公の館の中庭へと舞い降りた。
青い髪の魔法使いは、着地と同時に、呆然としながら膝をついた。
「大丈夫か？」
「ぐおっ…ごふっ」と声が漏れたかと思うと、口からざーっと血が流れ落ち、目を閉じながらうつ伏せに倒れた。血溜まりがじわじわと広がっていく。
「う、うそ…。おい、魔法使いっ！…リグローン！」
反応はなかった。ぴくりとも動いていない。
…何とかしなければ。何とかしなけば。と、思考だけはぐるぐると回る。…このままでは駄目だ。しっかりしろっ！と、自分に叱咤し、自らの頬を右手で打った。
そっと指先を魔法使いの首筋に当てると、脈はある。だが、弱い。耳を顔に近づけると、辛うじて呼吸の音がする。…まだ、生きているのだ。しかし…。
中庭に面した扉が勢いよく開かれ、中から三人の人影が走り出てきた。女学者シャアク博士と、小間使いが二名。人目も気にせず夜着を引っ掛け、髪も乱れたままの姿である。いつもの眼鏡さえもかけていない。男手がないのは、決戦に狩り出されているからであろう。
シャアク博士は、倒れている男の傍らに片膝をつくと、はっと表情を変えた。未明の薄暗さの中でも、その髪の青さが分かる。彼女の視線が、男の額にかすかに浮き出た紋章を捉えた。そこに、人差し指の先をそっと触れると、摩訶不思議な衝撃とともに、一瞬、淡い光を放った。
女学者は、厳しい表情になり、背後の小間使いに命じた。
「早く、この方をわたくしの部屋に！」
「はいっ」
二人が、魔法使いの横に毛布を広げた。
「クインティア様も！」
「分かった」
すぐに、四人がかりで手足を抱え、毛布の上に移す。そのまま、毛布の四隅を持って、小走りに走り出した。
マメール大公国のシャアクソリクティスと言えば、ナラルハラム大陸では当代有数の学識として知られ、近隣三ヵ国では随一とまで噂されるほどであった。彼女を一躍有名にしたのは、七年前に北のアヴァム王国が先々代の大公からの約定として、国宝ギレンザの銀杯を引渡すように求めてきた際に、約定の公印状が偽造であり、二国の間に争いを起こすための第三国の策謀であることを、鋭い分析と巧みな弁舌で論証し、使節の顔も潰さずに乗り切った一件であった。特に、史学、神学、軍学の造詣が深く、医術、本草術、天文術、数術にも通じていると言われている。
彼女に割り当てられた部屋は四部屋あり、書斎と作業場所と洗面所を兼ねた一角などで三部屋を占め、寝室は一番奥にあった。三つの部屋には、書棚と棚からあふれた黴臭い書物が平積みされていたり、薬棚や壷やら奇妙な道具が雑多に並べられていたり、寝室でさえも、そこかしこに古めかしい書物が山積みになっていた。
シャアク博士は、昏睡状態の魔法使いを寝台に横たえさせると、いつもの鼈甲の眼鏡をかけ、クインティアと小間使いたちを交互に見た。
「クインティア様は、この方の衣服を切り剥がして下さい。傷の様子を見ます。あなた方は、そこの衣装棚の引き出しから、白絹の衣を出し、できる限り沢山の包帯と傷当ての端切れを作りなさい」
そう言いながら、女学者は魔法使いの首筋に指を当てた。さらに、耳を男の鼻に近づけて、呼吸音を確かめ、瞼を開けて瞳孔の中を覗き込む。
クインティアは、既に短剣を抜き、作業に取り掛かっていた。神官が使う肩袈裟の留め紐や、浅黄色の長衣の帯、長くゆったりとした袖を、布を裂く音一つ立てずに手際よく分離し、剥ぎ取っていく。すぐに、蝋人形のように血の気のない肌が露わになった。腰から下の傷はなかったが、上半身は血に塗れていた。よく見ると、肩、腕、脇腹に引っ掻かれたような傷があり、その周囲の皮膚が紫斑となり、そこから血が滲み出ていた。
余りの酷い有様に、黒髪の剣士が茫然としていると、女博士が傷を一瞥し、低く冷静な声で問いを発した。
「クインティア様。この傷はどのようにして負われたのですか？」
「わ、分からぬ。…気づいたときは、血塗れだったのだ…」
「それだけでは、手掛かりになりません。何でもよいのです、思い出してくださいませ」
クインティアは必死の思いで、先程の記憶をまさぐった。
「…う…あ…そうだ。確か、虫に引っかかれたと言っていたが。…それだけだ」
「虫？」
シャアク博士は、指先で傷から流れている血をすくって、口に含んだ。次第にその視線が遠く、無表情になり、ぶつぶつと意味不明な呟きが漏れる。
「…腐毒ニ分類。傷ハ…虫…魔ノ…げむぐんぐぐノ爪…寸法ト照合。…毒…一致。注意…ぷらーな…ニ伴イ活性スルタメ…癒術ノ行使…危険。…解毒…自然物…該当スルモノナシ。…代用薬…かだ蛇ノ毒消…む…らぐす…とぅ…異方術ニヨル錬成…効能…アリト認ム。…既ニ…体内…拡散…内服ガ適…」
「シャアク…何を言っている？」
女学者の表情が戻った。彼女は、不思議な思慮深さを宿した目でクインティアを一瞥してから、小間使いに声をかけた。
「手当てに使う端切れはできましたか？」
「はい、この通りにございます」
二人の小間使いが、絹衣を裁断して築いた包帯と端切れの山を見せた。元々は、先代の大公から殊勲の証として下賜されたものであるが、今はその痕跡すら残っていない。
シャアク博士は、すっと部屋から出て行ったかと思うと、すぐに膏薬の壷と薬酒の瓶を抱えて戻ってきた。それを、寝台横の卓に置いて言った。
「薬酒と端切れを使って傷を清めてから、血留めの膏薬を塗り、包帯でしっかりと傷を塞ぐのです。急ぎましょう」
そう言うと、自ら端切れに酒をたっぷりと染み込ませ、肩の傷に沿って拭い始めた。クインティアや小間使いたちも、それぞれ分担して手当てに掛かる。暫くすると、血が綺麗に拭き取られ、肩、腕、腹について膏薬付の湿布と包帯が丁寧に巻かれていた。出血は膏薬の効果もあり、弱まったようであるが、既に大量の血液を失っており、体温もぞっとするほどに低下していた。
「さて、クインティア様。お召し物をお脱ぎ下さいませ」
「え？」
「このままでは、解毒薬を調合するまで、この方が持ちませぬ。人肌で温めるしか、今は手立てがございませぬ」
…衣を脱いで温める？クインティアの顔が赤くなった。
女学者は小間使いに顔を向けた。
「仕方ありませぬ。レーア。衣を脱ぎなさい」
「は…はい」
小間使いの一人が、顔を赤らめながらも、衣の帯を解き始めた。
嫌だ。と、クインティアは思った。このような緊急事態であるにしろ、眼の前で他の女が魔法使いと肌を合わせることは、受け入れられなかった。
「待て。私がやる」
クインティアは、黒い革靴を脱ぎ、黒帯をするすると解いた。黒装束の上衣を脱ぎ、薄襦袢（下着）をはらりと落とす。下帯を腰に巻いただけの姿になった。雪のように白い肌。細身であるが、しなやかで均整のとれた身体である。胸は大きいというほどではないものの、優美な曲線と張りがあった。その胸元には、翠晶と碧玉が連なる首飾りが、神秘的な輝きを放っている。
シャアク博士は、目を見張った。小間使いたちも、ほうっと息を呑んでいる。女学者は、我に返ると、冷静な声で言った。
「では、その方の横に添い寝をなさってください」
クインティアは、言われるままに、魔法使いの左側に身体を横たえた。肌がふれると、ぞっとするほど冷たかった。彼女は、男の身体にぴったりと密着した。その上から、小間使いたちが羽布団をふわりと掛ける。
「では、レーアたちは、部屋の外で控えていなさい。決して、誰も中に入れないように」
「はい」
小間使いたちが退出すると、シャアク博士はクインティアに向き直った。
「では、わたくしは毒消しを調合して参ります」
「お願いする」
女学者は、一礼してから退出した。
夜は、既に明けており、窓からは朝の光が差し込んでいた
魔法使いの生気のない顔が、はっきりと見える。首筋に紫斑が浮き出ているのは、毒のためであろうか。苦しいのか、僅かに口を開いており、そこから浅く短い呼吸の音が聞こえる。体温は、まだ低いままである。
そっと顔に手をやり、瞼から鼻、唇に優しく触れてもぴくりともしない。
クインティアの目から、涙が溢れて止まらなかった。
魔法使いは、毒に冒された身体で助けに来てくれたのだ。このまま死んだら、私のせいだ。死んだら…。このまま目を開かずに死んでしまったら…どうしよう。まだ、話したいこと…伝えなければならないことが、沢山あるのに。
彼女は、魔法使いの温かみの失せた胸に頬を寄せた。
心臓がゆっくりと脈打っている。弱い鼓動だ。
彼女は、小さな声を絞り出すように呟いた。
「リグローン。…私には、おまえが必要なんだ。国を出たのも、おまえに少しでも近づきたかったからなんだぞ。…だから、死ぬなんて許さない。お願いだから…死ぬな。…リグ……リグ…」
しかし、反応はなかった。
涙が頬を伝い、血の滲んだ包帯を濡らしていく。
ふと、シャアクが戻ってくる気配がしたので、クインティアは慌てて涙を拭った。
薄い夜着のままの女学者が、扉を開けて入ってきた。手には、朱色のどろりとした液体を杯に満たして持っている。
「カダという毒蛇の解毒薬を錬成変化させ、この腐毒に合わせました。効けばよいのですが…」
彼女は杯をあおると、魔法使いの喉に指をそっと当てながら、唇と唇を合わせた。
あ…。
クインティアは、緑の目を大きく見開いた。
「な…何を…」
魔法使いの喉がごくりと動いた。薬が流し込まれたらしい。暫くして、シャアク博士は唇を離し、深刻そうな顔をクインティアに向けた。
「体温が低過ぎます。このままでは、半日も持たないでしょう。わたくしも、お手伝いさせて頂かねばなりません」
そう言いながら眼鏡を置くと、夜着の帯を解き、はらりと落とした。その下には、襦袢や下帯すらも着けていなかった。豊かで柔らかそうな曲線が露わになった。胸も意外に大きくて、形もよい。
女学者は、羽根布団の中に滑り込み、魔法使いの右側にぴたりと身を寄せた。紫斑の浮いた胸に耳を寄せ、硬い表情のまま、小さく呟くように言った。
「脈も低下していますわね。…呼吸音から、気道の一部が血で塞がっているのでしょう」
「どうすればよい？」
「もはや、他に打つ手はありません。この方の生命の力を信じるしか…」
「…そうか」
クインティアは、ぎゅっと唇を噛んだ。
昼近くになった頃、外が急に騒がしくなった。無数の笛、拍子木、太鼓などの鳴り物が盛大に打ち鳴らされ、人々の喜びの歓声も聞こえてくる。どうやら、都から出撃した軍勢が凱旋してきたらしい。
シャアク博士の寝室では、重苦しい沈黙が支配していた。クインティアもシャアクも、朝から一言も会話していない。ただ、身動き一つしない魔法使いにぴたりと密着し、そのかすかな呼吸の音に耳を済ませている。
ふと、女学者が抑揚のない口調で口を開いた。
「そろそろお薬の時間でございますね。…薬を錬成して参りますわ」
彼女は、するりと布団から離れ、夜着を身に着けた。そのまま、空の杯を持って出て行き、隣室に入る音がした。しばらく、何かを磨り潰すような音が聞こえ、やがて一瞬だけ空気がぴんと張った。
今のは何だ？…まさか、魔法？
程なく、隣室から出る気配がして、杯を手にした女学者が入ってきた。彼女は、魔法使いの枕元に立つと、杯を口に近づけた。
「待て！」と、クインティアは思わず叫んだ。「それは、私がやる」
泣き腫らした目で、女学者を睨み付けている。
シャアクが、僅かに口元を緩めた。
「分かりました。では、薬がこの方の気道を塞がぬように、お手伝い致しましょう」
クインティアは、半裸のまま身を起こすと、朱色の液体が満たされている杯を受け取った。…ぷんと刺激臭が鼻を突いた。それを一気に口に含む。
…苦い。薬でなければ我慢できず吐き出していたろう。
シャアク博士が、魔法使いの喉に指先を当て、目で合図した。
クインティアの心臓がどきどきと脈打っている。思い切って、顔を近づける。目指す唇が大きくなった。彼女は目を閉じて、唇を合わせた。やはり、温もりがない。
「五回くらいに分けて、ゆっくりと流し込んでください」と、博士の落ち着いた声がした。
少しずつ、苦い液体を流し込む。かすかに、男の喉が動くのが分かる。
薬がなくなると、クインティアは顔を上げた。顔ばかりでなく首筋から肩にかけてまでもが赤く染まっていた。
それから、二人は再び布団の中で魔法使いの両側にぴたりと寄り添った。
シャアク博士は、相変らず難しい顔をしたままである。時々、魔法使いの首筋に指を触れたり、胸に耳を当てたりする他は、じっと瞑目したままであった。
二時（約四時間）ほど経った頃、シャアク博士が、ふと話を切り出した。
「まだ、この方については、何も伺っていませんでしたが、どのような方なのでしょうか？この髪の色といい、只者とは思えませぬが。お話しいただけましょうか？」
「…私の命の恩人だ。名は、リグローン。それ以上は言えぬ」
「実は、わたくし、お二人が空から舞い降りて来られるのを、拝見させて頂きました。空を飛べるとすれば、さしずめ、妖魔か魔導師、あるいはどちらかの神族の系譜か…。あのガランドルム本陣が天を突くような火炎に焼かれたのも、この方が関係されているのでしょう？」
クインティアは、暫く沈思してから口を開いた。
「誰にも言わぬと誓うか？」
「はい」
「ルキッドにもだぞ」
「もちろんでございます」
「見られていたとあっては、致し方ない。…リグローンはシュランシュヴァン山脈にあった魔法使いの白神一族の系譜だ。そして、今は故あってカリエ様にお仕えしている」
「カリエ様？…あの天界第三位の勇猛な戦女神でございますか？」
「そうだ」
「まあ…」
シャアク博士は、妙な顔をした。クインティアは、余りにも荒唐無稽なので笑われたのだと思った。
「おかしいか？信じられぬなら、それでもよい」
「これは失礼を。でも、空から舞い降りてらしたことや、その前の大きな火柱のことを考え合わせれば、不思議でもない話でございますね。…ところで、お二人は将来を誓い合われているのでございますか？」
「えっ…」
クインティアの頬がほんのりと朱に染まった。
「そ、それは…ま…まだだ」と、恥ずかしそうに呟いた。
「でも、このように臥床を共にされたことはあるのでございましょう？」
クインティアの顔がさらに赤みを増した。
「…まだだ」
シャアク博士は、にっこりした。
「なら、わたくしと同じでございますね。わたくしも、今日が初めてでしたのよ。この年になって、殿方と口付けするのも、このように肌を重ねるのも…」と言いながら、頬を魔法使いの肩に寄せた。
「な…何を…」
シャアクが真顔になった。おやという顔である。耳を胸に当てる。
「どうした？…何か障りでもあるのか？」
クインティアが不安そうに聞くと、博士は顔を上げ、眉根を緩めた。
「いいえ。どうやら、薬が効き始めたようでございますわ。温もりが戻ってきていますし、呼吸音も安らかになっています」
クインティアも、胸に耳を当ててみた。確かに、心臓の鼓動が先程よりも力強くなっている気がする。肌の温もりも、既に死人のような冷たさはない。
「では、助かるのだな？」
「はい。もう、大丈夫でございましょう」
「そうか。…よかった」
クインティアの眼から再び涙が溢れた。
シャアク博士は、寝台から立ち上がると、衣装扉の前に立った。扉を開け、下帯を着け、襦袢の袖を通し、更に紫の絹衣を羽織って帯を締める。最後に、櫛で手際よく乱れを整えると、二色の紐でくるくると巻きながら後ろに纏め上げ、銀の簪（かんざし）でぴたりと留めた。鼈甲の眼鏡を掛けると、いつもの毅然たる女学者がいた。
「これから、出仕するのか？」
クインティアが布団の中から訊くと、シャアクは眼鏡の隅をきらりとさせた。
「容態が回復に向かったからには、いつお目覚めになるとも限りませんわ。その時に、裸のままでは失礼かと思いまして…」
「あ…」と、クインティアが声を上げた。そんなこと、思いもしなかったのである。
「でも、リグローン様には、そのお姿の方がよろしいかも知れませんわね」
「い、いや。駄目だ」
クインティアは布団から出ると、急いで襦袢を身に着けた。上衣は…見つからなかった。
「それならば、余りにも酷い有様なので、捨てさせて頂きましたわ。代わりに、これをお召し下さいませ」
シャアク博士は、衣装扉の中から青絹の衣を選び、クインティアに差し出した。
「その後で、あちらの手水を使われるとよろしいでしょう。せっかくのお顔が、涙でひどいことになってらっしゃいますから」と、隣の部屋を指し示した。
外では、盛大な祭りのような喧騒が続いていた。
…リグ…リグと悲しそうな声が聞こえた。
俺を呼んでいるらしい。と、魔法使いリグローンは、重く停滞した脳髄で考えた。しかし、『リグ』というのはサヴァリルの呼び方だ。サヴァリルは死んだはずだが。
いや、俺はこの声の主をよく知っている。
クインティアだ。
あいつは、いつも俺の予想を超えることをする。最初に会った時は、有無を言わさずにいきなり斬りかかってきたものだったが、いつの頃からか、俺を善人と信じ込んでしまったらしい。近頃では、俺の言を疑うことすらせず、そのまま受け入れてしまうようだ。御蔭で、俺も柄に合わぬことをするようになってしまった。ダナでは小汚い子供を二人、エルフォンではくだらぬ王族どもを助けるために、身体を張って戦う羽目になった。一年前なら、平然と見殺しにしていたろうに。
くそ…立派な偽善者だ。
だいたい、クインティアは、自分の命に無頓着過ぎる。だから、見ず知らずの者たちが困難に直面しているのを見ると、見返りも求めず、ごく当たり前のように平気で命をかける。多くの人間どもが、望んで家来になりたがる訳だ。
認めたくないが、俺もそうした類の一人なのだろう。だから、折角見つけた仇敵の追跡をあっさり諦めて、マメールに急行したのだ。
そうか。思い出した。ここはマメールだ。
青い髪の魔法使いは、重い瞼をゆっくりと開いた。しばらく、ぼうっとして天井を見上げる。焦点が次第に合ってくると、ようやく視線を横に向けた。
枕のすぐ横に、眼を閉じたクインティアの顔があった。跪いたまま寝台に顔を乗せ、ひそやかな寝息を立てている。
リグローンは、のろのろと手を動かして、目の前にかざした。絹の包帯で巻かれており、所々変色した血が滲んでいた。包帯の隙間から覗いた皮膚に紫斑が浮いていた。青白くて血の気のない皮膚の色である。
…俺は、まだ生きているのか。
再び、クインティアの顔に視線を戻した。泣いていたのだろう。目の周りが少し腫れている。リグローンは、鉛のように重く硬くなっている手をゆっくりと彼女に近づけ、その頬に触れた。指先の感覚が少し麻痺していたが、暖かいことだけは分かった。
その睫毛が僅かに震えたかと思うと、瞼が開き、翠玉の瞳が現れた。目が大きく開かれた。
「リグ…」
「心配…かけた…な」
「喋るな。今は、無理に喋らなくていい。…シャアク！リグローンが、意識を取り戻したぞ！」
別の部屋から人の近づく気配。誰かが枕元に立って、上から覗き込んできた。女だ。
俺の瞼を開けて、眼鏡越しに覗き込みながら、首筋に指を当て脈を計っている。次に、胸に耳を押し付け、神経を研ぎ澄ましている。やがて満足そうに顔を上げ、眼鏡の隅がきらめいた。
「ご気分はいかがでございましょうか？」
「最…悪…だ」
「ならば、五感は正常のようでございますね」
「…どのくらい…寝て…いた？」
「まだ、半日くらいでございます」
「そう…か」
魔法使いは、上半身に力を込め、苦痛に顔を歪めた。シャアク博士が、すぐに彼の胸を押さえた。
「無理をすると、傷口がまた開きます。暫くは、お薬をしっかりと飲んで、養生しなければなりません」
「くそ。…いつ、起きられるように…なる」
「こうして生きているのが不思議なくらいなのです。本来であれば、一月は…」
「…」
「ただ、あなた様は常ならぬお方のようでございますから、あるいは…」
「御託は…いい。ならば…どんな薬でも…飲んでやるから…持ってこい」
「はい。もちろんでございますわ」
シャアク博士は一礼すると、隣の部屋に戻り、今度は例の杯に黒い液体を入れて運んできた。
「かの大異変前から伝わる秘薬にございます。傷ついた臓器を蘇らせる効能がございます」
「…くれ」
クインティアが、戸惑いがちに口を挟んだ。
「一人で飲めるか？」
「いや。…無理そうだ」
「心配ございませんわ。薬ならば、飲ませて差し上げますから」
シャアク博士が、ちらりとクインティアに目を向けた。しかし、彼女には躊躇と恥じらいがあった。
「では、わたくしが、お手伝い申し上げましょうか？」
「だ、駄目だ。私がやる」
クインティアは顔を赤らめながら、シャアクの手から杯を奪い取った。魔法使いが怪訝そうに見上げている。彼女は、少し視線を逸らしがちに言った。
「仕方ない。…断っておくが、他意はないんだぞ。他に方法がないから…だ。…目を瞑れ」
「…」
「いいから、瞑れ！」
魔法使いが目を閉じたのを確認すると、クインティアは杯の黒い液体を口に含んだ。泥か墨のような苦さと臭いである。でも、今はそれどころではない。彼女は、魔法使いに顔を近づけた。その唇が迫ってくると、目を瞑り、思い切って接触した。
一瞬、魔法使いの身体が僅かに硬直したが、すぐに弛緩した。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。落ち着けと言い聞かせながら、少しずつ薬を流し込む。彼の咽喉がごくりと鳴るのが分かった。
薬がなくなったので、クインティアは唇を離し、顔を上げようとした。が、動けなかった。
「え？」
目を開けると、魔法使いの鋭い碧眼があった。その右手が、クインティアの首に掛かり抑えている。
「まだ…薬が残ってる」
「あ…」
強引に引き寄せられ、再び唇が重なり合った。心臓が大きく跳ねた。口の中が信じられないことになっている。頭の中が混乱して、何も考えられなくなった。
暫くして、魔法使いの手が離れた。クインティアは我に返ると、真っ赤になった顔を上げた。
「うそつきめ。動けないって言ったくせに」
「薬が…効いたのだろう」
「そんなに早く効くものか」
「あんな風にされたら…死人だって…生き返る」
魔法使いの顔にも、心なしか生気が戻っているようだった。クインティアは、ぷいと横を向いて呟いた。
「もう…知らぬ」
暫くして、魔法使いを横目で伺ってみると、安らかな顔で目を閉じている。
「今度は、本当にお薬が効いたようでございますね」と、シャアク博士が穏やかに言った。「この分では、次にお目覚めになるのは、早くても明朝になるでしょう。その間に、クインティア様もお休みになられたら如何でございましょう？」
「でも、リグに付いていて上げないと…」
「もはや、容態が急変することはありますまい。小間使いにでも看させておきましょう。わたくしたちにも、休息が必要でございますから」
「しかし…」
「それほど、ご心配なら、あれにお命じになればよろしゅうございましょう」と、部屋の天井近くでゆらゆらと揺れている炎のような霊気を指差した。
その霊気が心に直接響く声で言った。
「わしが見ていよう」
「…」
「お願い致しますわ。それでは、小間使いたちに申し付けて参ります」
女学者はダモンとクインティアに一礼すると、退出して行った。
次に、青い髪の魔法使いが目を覚ましたのは、翌日の早朝であった。
夏の盛りなので、既に窓から明るい光が射していた。窓に目を向けると、抜けるような青空に大きな入道雲が屹立しているのが見える。どこからか笛や太鼓を叩く音が聞こえる。
リグローンは、部屋の中に視線を巡らせたが、クインティアは居なかった。今は誰もいないようだ。部屋の隅の燭台の上に鳥の形の橙色の霊気が揺れているだけである。
「目覚めたな。…クインティアを呼んでこようか？」と、霊気が言った。
「いや。…まだいい」と言いながら、魔法使いは手を目の前に上げた。
既に感覚が戻っている。痛みもない。脇腹、肩、腕に僅かな痺れがあるだけである。手に巻かれた包帯を剥ぎ取ってみると、傷口が塞がりかけているし、毒による紫斑も消えかかっている。
指先を窄めると、ばちばちっと青白い火花を散らす球電が浮かび上がった。魔力も支障なく使えている。リグローンは、全身に治癒の魔法を張り巡らせると、ゆっくりと身を起こした。筋肉が硬化していたためか、節々の動きがぎこちなかったが、上半身を起こすことができた。
やがて、扉の開閉の音が聞こえ、足音が近づいてきた。クインティアと一緒に居た女と、小間使いである。それぞれの手に陶器の鍋、水差しと食器が置かれた盆を持っている。
女学者は鍋を横の卓上に置き、小間使いから盆を受け取って、それを鍋の横に並べると、涼やかな声で言った。
「アニシア、ご苦労様でした。後のことは、わたくしがやりますから、下がってお休みなさい」
「はい。シャアク様」
小間使いが、ぺこりと頭を下げると、そそくさと退出した。魔法使いを変人か化け物のように思っているらしく、魔法使いの方を見ようともしない。多分、青い髪のせいであろう。
しかし、シャアクにはそんな様子は全くなかった。
「ご気分は、いかがでございましょうか？」
「悪くはない」
「では、お脈を取らせて下さいませ」
そう言いながら、魔法使いの首筋に指を当て、同時に胸の上部に耳を付けた。
「…すっかり良くなってらっしゃいますね。呼吸の音にも全く乱れはございませもの。これならば、お粥もお召し上がりになれるでしょう。如何でございますか？…出血が多ございましたので、喉が渇いておられるのではないかと存じますが…」
「そうだな。確かに、喉が渇いた。水をくれ…」
シャアク博士は、水差しから杯に褐色の液体を注いだ。
「薬湯になされませな。造血の効能がございますから」と、それを魔法使いに差し出した。
「…」
「それとも、クインティア様をお呼び致しましょうか？」
シャアク博士の表情は殆ど変わらなかった。
リグローンは、黙って杯を手に取り、口に運んだ。ごくりと喉が鳴り、一気に飲み干すと、空になった杯を突き出した。
シャアクが水差しを傾けて、杯を満たした。それも直ぐに空になった。
「シャアク…とか言ったな」
「はい。シャアクソリクティスと申します。名前を覚えて頂き、光栄にございます」
「毒を消したのも、あんたがやったのか？」
「はい」
「人族とは思えぬ技だな。それに、俺の髪を見ても全く動揺していない。…ほう。よく見れば、人とは異質な意志が宿っているようだ。…どういうことだ？」
「わたくしには、もう一つの名がございます。ティアワナク…と申し上げればよろしゅうございましょうか？」
「ティアワナク…五龍の一つ大地の龍と同じ名だな。だとしても、五龍はどれも小山ほどの大きさのはずだ。火龍グリナーラや雷龍トーアカーマのようにな」
「ふふふふ。わたくしは確かにティアワナクでございますが、同時にマメール人のシャアクソリクティスでもございますよ」
「人と龍との融合体とでも言うのか…」
「はい」と、シャアク博士は真顔で言った。「弐代様と同じように…わたくしも。いえ、正しくは、弐代様は三つの存在の融合体でございましょうが」
「三つとは？」
「先代の龍王シュナラ様、オルン神族のカリエ、そしてサヴァリルという人族亜種の血族でございます」
「…」
「お信じになられませんか？」
「証拠は？」
シャアク博士は、ナパーシカ流のような礼式で辞儀をした。
「わたくしの記憶をお読み下さいませ」
シャアク博士は、そのまま魔法使いの前に跪いた。深い智恵を感じさせる目を、すっと閉じた。リグローンは、彼女の広い額に人差し指を触れた。
いきなり、凄まじい災厄の場面の記憶が流れ込んできた。
閃光が走ったかと思うと、全てが白熱の光に包まれた。次の瞬間、大地が蒸発し膨大な土砂が天空高く噴き上がった。山や湖が次々に蒸発し、津波のように全てを根こそぎに破壊する衝撃波が広がっていく。
地上から太陽の光が消え、真っ暗闇となった。大陸の中央部が深くえぐれ、真っ赤に焼けた溶岩の海が露出した。噴き上がる硫黄と水蒸気の雲。その周辺に、大量の岩石が瞬く間に降り積もって不規則な山脈を形成していく。まるで、この世の終わりを見るような光景であった。
その炎と土砂が猛烈に吹き荒れている暗黒の中を、六つの巨龍と光を帯びた麒麟騎兵の軍勢が衝撃波の尾を曳きながら交錯し、文字通り百雷を集めたような閃光と破壊の波を激しく応酬していた。
戦女神カリエと龍王シュナラが、真正面から衝突した所謂『龍戦争』である。
その戦いが五日目に入った時、猛々しい戦場の空気が一変し、一瞬にして不可思議な静寂が訪れた。
灼熱の暴風ばかりか、大地の鳴動さえも、僅かな余韻を残して治まった。その静寂をもたらしたのは、海よりも遥かに深い悲しみであった。龍王や戦女神を含む森羅万象全てが、その悲しみによって支配されたのである。
『神女アリアロランの祈り』である。アリアロランは戦争開始直後から、この争いを止めさせようと必死に仲裁に入ろうとしていたが、龍王シュナラも戦女神カリエもすっかり我を忘れてしまい、まったく聞く耳を持たなかったのである。そして、世界の破壊の惨状を目の当たりにしたアリアロランの悲嘆が限界を超え、『祈り』をもたらしたのであった。ちなみに、この祈りの力はあの闇の支配者メネアの戦闘意欲ですらも喪失させると言われている。
こうして、戦女神の灼熱の槍も、龍王の咆哮も止まり、龍戦争は終結を迎えたのだった。
戦後、和議の印としてアリアロランの主催で儀式が行われた。
大きく穿たれた裂け目の縁に小高い塚山を盛り、滑らかに加工された大璃石を敷き詰めて、白亜の巨大な祭壇を築いたのである。祭壇の頂部は水晶の石材により六角錐の構造物になっており、内部は祠となっていた。
アリアロランは、戦女神カリエから一筋の黄金の髪を、龍王シュナラからは碧銀の鱗を受け取ると、それらを融合させ一つの輝ける宝珠となし、祠の中に収めた。龍王は、大地の龍ティアワナクに祠の守護を命じ、塚山そのものを大地の中に沈めさせた。
時が流れた。
約二千五百年後、世に言うナガーダの大異変により、再びナラルハラム大陸の大地が揺れ動き、多くの山が滑り、あるいは形を変えた。幾つかの湖は干上がり、湖沼地帯となった。深い谷だった所が隆起して、丘陵地帯に姿を変えたりもした。かつて、アリアロランが塚山を築かせた土地は、やがてマメールと呼ばれ、希少な銀を産するようになった。どうやら、マメール銀は塚山の不可思議な加持力の影響を受けて、銀鉱脈が錬成されてできたものらしい。
そして、今から二十年ほど前、大地に埋もれていた塚山を訪れた者がいた。片腕の魔女サヴァリルであった。彼女はティアワナクの隙を突いて祠に安置されている宝珠を奪い取ろうとしたが、宝珠は淡く揺らめいたかと思うと、魔女の身体に吸い込まれて消えてしまった。直後、彼女の腹が見る見る大きくなり、程なく青い髪の赤子を産み落とした。サヴァリルは茫然としながらも、産声を上げている赤子を抱えて逃げ去って行った。
再び、時が流れた。
次に現れたのは、黒衣の女学者シャアクソリクティスであった。時はごく最近のことであろう。シャアクが塚山の跡に辿り着くと、ティアワナクは彼女と取引を行った。取引とは、心と身体を融合する代わりに、龍の知識を共有することであった。第二の龍王が人の姿を有することを悟り、その近くに仕えるためであったらしい。
魔法使いリグローンは、シャアク博士の額から指を離すと、その眼鏡の奥を覗き込んだ。偽りの記憶とは思えなかった。サヴァリルのことを含め、様々なことが符合している。
何故、自分の額に龍王の紋章があるのか。何故、カリエは自分を拾ったのか。何故、グリナーラやトーアカーマを見出すような都合のよい仕事を言いつけたのか。何故、サヴァリルは息子同然に育ててくれたのか。…である。
元々、己の出自には興味はなかった。龍王に近い存在になることも、漠然とした予感はあった。そして、この女の瞳には、偽りが全く感じられない。
龍王か…それも悪くはあるまい。
リグローンは、感情を表さない声で言った。
「俺を、『弐代』と言ったな？」
「はい」
「試しもなしに新たな龍王と認めるか？」
シャアク博士は、にっこりした。
「わたくしは、そのような無粋な真似は致しませんわ。昨日は大いなる力を宿した妖魔を、ただの一撃で滅せられたではございませんか。それで十分でございます。それに、わたくしの半分はマメール人。この国を救って下さった弐代様には、衷心からお仕えしとう存じます」
「いや。この国を救ったのは、クインティアであろう」
「もちろん、クインティア様にも恩義を感じてございます。けれども、元凶を滅ぼしたは弐代様かと…」
「…」
「それとも、ご迷惑でございましょうか？」
「二度と、この国には戻れぬぞ」
「はい」
「よかろう」
シャアク博士は、恭しく新たな龍王の右手を取り、唇をそっと付けた。
男の腹がぐううと鳴った。
陶器の鍋に入っていた粥は瞬く間になくなった。水差しの中も既に空である。
青い髪の龍王は、寝床から起き出すと、身体に巻かれていた包帯を残らず剥ぎ取った。傷口はほとんど完治しており、紫斑も消えている。身体中の細胞が活性化し、力が湧き出している。もう、大丈夫だ。
木綿の薄布を半裸の身体にくるりと巻きつけると、それは瞬く間に質素な法衣に変化した。
「もう、出立されるのでございますか？」と、シャアク博士が驚きの色を浮かべた。「まだ、安静にしていらした方がよろしゅうございますのに」
「時が惜しい。途中で投げ出してきたことがある。手当ては、遅れれば遅れるほど難しくなろう。それに、シャームナル湖の東に置いてきた奴がいるからな」
「クインティア様に何も言わなくてもよいのですか？」
「あいつなら大丈夫だ。それに、こいつがいる」
リグローンは、天井近くに浮かんでいる橙色の霊気に視線を向けた。
「ダモンクランガータ。後は、頼んだぞ」
「しかと承った。龍王よ」
青い髪の男は、無愛想な声でシャアクに声をかけた。
「飛べるな」
「もちろんで、ございます」
「ついて来い」
窓が音もなく開き、一陣の旋風が巻き起こった。
同じ朝である。
クインティアが目覚めた時、辺りはすっかり明るくなっていた。白塗りの天井に描かれた花園の絵が鮮やかに見える。窓の向こうからは、戦勝を祝う歌舞音曲が聞こえてくる。夜を徹して祝っているらしい。
リグはもう目覚めたろうか？
ふと、昨日の記憶が鮮明に蘇ってきた。唇には、その時の感触が残っている。頬が赤くなり、頬が緩んだ。あれはリグの方からしてくれたのだ。だとしたら…。
そうだ。早速、見舞いに行かねば…と、彼女は寝台から身を起こした。
その視線の先に、壁に立てかけた水斬りの太刀があり、その束に炎のような霊気が浮かんでいた。
「ダモン！…どうしたのだ？リグに何かあったのか？」
「はや、出立されたのじゃ」
「出立って…あの身体でか？」
「既に回復されたとのことじゃ。それに、シャアクがついておる故、大事あるまい」
「シャアクが…か？何故、シャアクがリグについて行くのだ？」
「それはじゃな…」
ダモンクランガータは、見聞きした一部始終を語り始めた。
その一刻（約四十五分）後、クインティアは館の屋上で剣の稽古をしていた。エモクたち三人は街に出て飲み歩いているらしく、姿は見えなかった。従って、青空の下に一人、地平に向かって木剣を構えている。瞑想でもしているかのように、静かに構えたままである。
夏の盛りなので、炎天下に立っているだけでも汗が出てくる。たちまち、綿の稽古着に汗染みができてきた。
天空を舞う鳶が笛のような声で鳴きながら、優雅に輪を描いている。
木剣の先は微動だにしていない。しかし、それとは裏腹に、胸の辺りが妙にざわざわして落ち着かなかった。
何故、シャアクなのだ？何故、私ではないのだ？…という内なる声が止むことなく木霊していた。
リグローンが新たな龍王であり、シャアクがその眷属であることは、ダモンから聞いて頭では理解している。でも、やはり納得できない自分が居るのである。
何故、私を置いて行く？なのである。
その時、屋上にバウラギルたちが現れて、酒臭い声を上げた。
「お師匠様あ！大変でやんすよお！…あのシャアク先生が駆け落ちしたって、えらい騒ぎで…」
クインティアの木剣が僅かにぴくんと震えた。
彼女は構えを解くと、くるりと踵を返し、じろりとバウラギルを睨んだ。
「知っている！だから、何なのだ？」
その不機嫌さが尋常ではない。
バウラギルは、目を白黒させた。
「何…って、その…ええと。やい、エモク…何とか言うでやんすよお！」
「え、俺…ですかあ。…って、急に言われてもなあ」
クインティアはむすっとしたまま、階下に通じる扉に向かって歩き始めた。
その遥か背後、北の館から半里ほどの城壁近くで、一つの望楼の柱が折れてゆっくりと傾き、やがて崩壊した。