理智の封印 第二部
「碧の龍王」
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十四、破滅の使神
聖地ヴェツムを天空から俯瞰すると、一つの巨大な城塞都市のように見えるかも知れない。百を超える寺院が、陸地と湖沼とが複雑に入り組んだ狭い土地に建ち並んでいる。湖沼の間は、石垣造りの水路でつながっており、それらが幾重もの濠となって、ヴェツムの中心たる島を囲んでいる。
その島は、別名『神々が降臨し賜う清浄なる島』とも言われ、白亜の台地とその上に聳え立つ尖塔群からなっている。周囲は、およそ二里（四.四キロ）。台地の地下には、千年以上をかけて掘り抜いた窟院と坑道が、蟻の巣のように張り巡らされていた。
尖塔群の中で際立っているのが、十一円儀堂と呼ばれる円錐形の構造物であった。外壁の一面には金箔で覆われており、夏の強い日差しを受けて、豪華絢爛たる輝きを放っていた。辺りには、読経の声と香木を焚く煙が絶えない。
王妃タターシラになりすましたシャアク博士は、その円儀堂の一室で待たされていた。籐の椅子に腰を掛け、その前に女官長がただ一人控えている。供についていた女官や衛兵たちは、島の手前の宿坊で控えていた。立ち入りは、王家に関わる者といえども制限されているのである。
既に、日が高い。夜半に到着してから部屋に案内されたまではよかったが、それから今の今まで、何の沙汰もないのである。食事どころか、水差し一つないまま、ただひたすら待たされている。
王妃付き女官長のココは、夜の明ける前から苛立ちの色を露わにして、物言わぬ入口の扉を睨み付けていた。予定では、とうに祈祷が始まってよい頃合いである。
女官長の苛立ちが限界に達しようとした時、王妃がぽつりと声を漏らした。
「喉が渇いた。…水をたもれ」
「水…でございますか？」
女官長は、困惑して辺りを見回した。やはり、水差し一つない。
「水…水じゃ」と、王妃が切ない声で繰り返した。
ココ女官長は、王妃の前で深々と頭を垂れた。
「畏まりましてございます。直ちにご用意させますれば、しばしのご辛抱を…」
そのまま後ずさりし、扉の手前で再度一礼してから、そそと退出して行った。
王妃、否、シャアク博士の口元が緩んだ。彼女は、女官長が扉を閉めるのを見届けるると、絹の被衣を脱ぎ捨てた。
何かが心に引っかかっていた。この堂に至るまでに、注意深く仕掛けられた結界が幾重にも施されており、ほんの少しの魔力妖力の発動も検知できるようになっている。
なのに、その内側では、空虚と言えるほど静まり返っている。人の気配はあるものの、妖魔や術師の気配が殆ど感じられない。
シャアク博士は、被衣を脱ぎ捨てると、籐の椅子から離れて、白亜の床跪いた。そっと指先を着けた。
彼女の意識の奥底で、大地の龍ティアワナクがゆっくりと覚醒し、彼女の心を満たした。指先から、穏やかで重厚な岩の霊気が伝わってきた。この島全体がほぼ一枚の岩になっているらしく、霊気の奥行きが深い。更なる深みへと知覚を浸透させていき、頃合いを見て『カリンダーラ』という名前を忍びやかに送り込む。
暫くしてから、岩盤から微かな反応があった。
脳裏に、やや色褪せた光景が浮かんできた。場所は、円儀堂の中心であろう。そこに老人が頭巾を目深に被り、錫杖を突きながら歩いていた。彼が龍王の探しているカリンダーラなのだろうか。頭巾から長く白い髭が垂れており、少し腰が曲がっているものの、その全身に独特の歪みを伴った妖気を纏っている。
老人は、壁の一角に近づき、指先でその表面を何度かつつくような仕草をした。すると、そこにぽっかりと穴が開いて、地下へと続く階段が現れた。
カリンダーラの姿は、階段に踏み入れるとともに、掻き消えてしまった。不可視の境界を通過したのであろう。岩の霊気の知覚も、その先には及んでいないようだ。
映像の鮮明さからすると、昨日の出来事と思われた。
シャアク博士は、硬い石床に指先を走らせた。淡い光を帯びた曲線が、円形の陣をなし、太古の象形文字や紋様がすらすらと描かれていく。大地の霊気を利用し、ここと結界の外とを直接繋ぐ路を形成しようというのである。
彼女は髪の毛を一本抜き、陣の中心に置いた。髪の毛が閃光と共に消え、煙とともに、円陣から光の柱が立ち上がる。
その光は一瞬で消えたが、代わりに、青い髪の若き龍王が姿を現した。
リグローンは、無表情のまま、周囲を一瞥した。
「なるほど。大地の力と一体になれば、霊気が乱れることもなく路が繋がるのか。便利なものだ」
「はい」
「して、奴はどこに居る？」
「この堂の中ほどに、地下へと続く隠し階段がございます。その先の結界の奥かと…」
「上出来だ」
龍王はくるりと背を向け、入口に向かって歩き出した。博士が、その後を追いかける。
「シャアク」と、振り返らずに龍王が言った。「あの力リンダーラのことだ。他にも抜け道を用意しているに違いあるまい」
「はい。既に、ヴェツム一帯の結界につきまして、術法を解明済みでございます。弐代様がお望みの時に、わたくしの知覚の網と入れ替えますれば…」
「任せよう」
「はい」
円儀堂の中は空虚であった。この建物には、よほど高位の神職でないと入れないのであろう。堂の入口の箱のような詰め所に僧兵がいるだけで、中に入ってしまえば、咎める者もいない。
香の染み付いた暗い廊下を、二人は音もなく進んだ。しいんと静まり返っているので、小さな足音でも聞こえるはずだが、音はない。
中心の部屋は、直径二十歩ほどの円形の空間となっており、壁一面に極彩色の地獄絵図が描かれていた。人々が様々な怪物に引き裂かれ貪り喰われ、夥しい血により真っ赤な池が出来ている。ちなみに、階層が上がるに従って、描かれているものが変わり、最上階では天上図になっているそうな。
シャアク博士は、絵図に注意深く目を向けながら，湾曲した壁に沿ってゆっくりと歩を進めた。やがて、その足がぴたりと止まった。彼女の指が壁面をそっとなぞった。
「隠し階段の扉は、ここなのですが、内側から鍵が掛けられております。それが護りの結界と重なっているため、扉を打ち破れば、わたくしたちの存在に気づかれるは必定かと」
「構わぬ」
「ならば、鍵を壊し、結界を破ると同時に、内側に識覚を投射いたしましょう」
「うむ」
その言葉が終わらないうちに、閃光が走り、隠し扉が瓦礫となって崩壊した。結界も跡形もなく霧消する。
博士は、壁に指を付けたまま、地下へと知覚の網を一気に拡大した。カリンダーラの名を載せた波紋が伝播し、程なく応答が返ってきた。
九層下に該当する気配があった。他にも気になる存在があるが、今は奇襲の利を生かすために、ぐずぐずしてはいられなかった。
「先導いたします」
シャアク博士は、疾風と化して隠し階段に飛び込んだ。その背後に、もう一つの疾風が続いた。
その頃、地面から九層下に位置する広間では、奇妙な光景が展開されていた。
妖術師ガドゥ衆の長カリンダーラは、奥の曼陀羅図を背に、黄金の錫杖を手にしたまま仁王立ちしていた。その眼下に、砕け散った短剣の柄を握り締めたアシュナ皇子が、失神してうつ伏せに倒れていた。右肩の辺りに、ひどい裂傷があり、血溜まりが出来ていた。そこから少し離れた所に、女鬼将が嫣然と腕組みをし、冷ややかにカリンダーラを見据えて立っている。
空気はぴんと張り詰めていたが、今にも戦いが始まる様子はない。カリンダーラが苦虫を噛み潰した表情のまま、しわがれた声で言った。
「この者、御身の従者と見受けられまするが、我が命を狙いたるは、御身のご存念でありましょうや？」
デニーラは、切れ長の目を細めて答えた。
「こいつは、まだ人族なのさ。世が滅ぶ話をしたら、黙って見てられないというから、ここを教えたまでのこと。その方が少しは面白くなるだろう？でも、まさか、いきなり正面から突っ込むとは思わなかったけどねえ」
「我らが悲願を潰すのが、面白いと？」
「我ら？それは、誰のことだろうねえ？…あはははは。いずれにせよ、争いを見るのは、楽しいじゃないか。ま、世界が滅びる前の余興ってところだろうかね。それに、あたしはおまえの企みをどうこうしようというつもりはないし、おまえとの約定を反古にする気もないけどね」
「では、こやつを殺しても、構わぬと仰せなのですな？」
「そうさねえ。それならそれで、見ものなだけさ」
デニーラの舌がぺろりと伸びた。
老妖術師は、疑心暗鬼にとらわれたまま、額に脂汗を滲ませた。
同じ頃。
薄暗くじめじめした洞窟の中、懸命に走りながら、クインティアは何度も心の中で繰り返していた。
ここは何だ？一体、何が起こっている？…と。
洞窟の中は、まさに狂気に染められた悪夢のような光景であった。牛よりも二周りほど大きい何か、生き物とも岩とも判別し難いものが、洞内を覆い尽くしている。数は、千…否、万を遥かに超えるかも知れなかった。行けども行けども、尽きることがない。
ただの奇怪な岩なら、気にしさえしなかったろう。けれども、その表面には銀の細かい紋様がびっしりと描かれており、その中心には黒い円が意味ありげに位置していた。まるで瞳であった。明確に、視線を感じるのである。
「目を合わせるな！心を喰われるぞ！」と、ダモンの緊迫した声が耳元でして、クインティアは我に返った。
「まさか、これは生きているのか？」
「生きてはおらぬ。今はの。しかし、今でも、危ういことには違いない。…全く厄介なものが、上に被さっているものじゃて」
最後のは独白に近い。クインティアは、絶望に近い予感にとらわれたが、すぐに振り払った。
既に地の底と言えるほどに下っているが、まだ先が見えなかった。
一方、カリンダーラとデニーラとの睨み合いは、唐突に終わりを告げた。
地下に張り巡らした結界が砕け散ったかと思うと、耳を聾する爆音とともに、岩壁の一角が吹き飛んだのである。もうもうたる埃の中から、青い髪の男と女従者が悠然と姿を現した。
龍王は、冷徹な表情のまま洞内を一瞥した。相対しているのは、仇敵カリンダーラに間違いない。その足元に誰かが倒れている。やや離れた所に、妖気が尋常ではない女がいる。こちらの方が厄介そうだ。
その女妖魔が、急に笑い出した。
「あはははは！全く、この世の中は面白いねえ。鍵をどんな奴が持っているのかと思ったら、人のなりをした化け物じゃないか！…さて、どうするかね。大聖師様？」
「何じゃと？最後の鍵を、こやつが持っているとな？」
「間違いないね」
「…ならば、やらずばなるまい！」
カリンダーラの顔が忌々しげに歪み、錫杖で床をどすんと突いた。
「何を喚いている？」
リグローンの低い声と同時に、その掌から閃光が迸った。妖術師が青白い火球に包まれ、爆発した。洞内が震撼した。
火球が消えると、カリンダーラが何事もなかったように立っていた。手にした錫杖の先端から触角のようなものが、何本も展開されている。それが炎を防いだらしい。
老妖術師は、ちらりとデニーラに目をくれた。期待していなかったが、援護に動く気配はない。腹の中で悪態を突きながら、彼は錫杖を床に打ち下ろした。
ばりばりっと耳障りな音とともに細かい地割れが走った。そこから、鋭い棘を生やした蔦が何十本も飛び出し、リグローンたちを一瞬で包み込んだ。蔦から伸びた人面花が、けたけた笑っている。
カリンダーラは、口元をにやりと歪め、黄ばんだ歯を見せた。
次の瞬間、棘蔦が一瞬にして焦げた茶色に変色し、細かい砂塵となって、ざーっと崩れ落ちた。青い髪の龍王と女従者とが、何事もなかったかのように立っている。
「つまらん。老いて惚けたか…」と呟きながら、リグローンは指を弾いた。その周りの空間が歪んだかと思うと、音の津波が妖術師に殺到した。
錫杖の触角が砕け散った。カリンダーラの身体も跳ね飛ばされ、岩壁に激突した。老導師は、杖を支えによろよろと立ち上がった。絢爛たる絹の僧衣が破れ、血が滲み出している。彼は、デニーラに向き直った。
「ナ、ナイファタッサ様。ど、どうか、お力添えを…」
女鬼将は、ぷいと横を向いた。
「ふん。今更、様付けかい？あたしは、虫けら一匹がどうなろうが、知ったことじゃない。そもそも、約定の範囲外だしねえ」
老導師が歯を食いしばった。青い髪の龍王は、冷ややかな表情で女妖魔に言った。
「加勢する気があるなら、それでも構わんぞ」
「さあね。あたしには関係ない話さ」
「…そうか。ならば、くだらん仇討ちも終わりにしてくれよう」
「ま、待ってくれ。リグローン！」
その時、床に倒れ伏していた男がぴくりと動いた。まだ朦朧とした顔が龍王に向いている。その視線の焦点が合うと、驚きの色が浮かんだ。
「あ、リグローン殿…」
それは小さな呟きだったが、カリンダーラは聞き逃さなかった。すぐに身を翻し、アシュナ皇子の背に乗って、砕けて尖った錫杖を彼の首に押し付けた。
「さても、面白き縁と言うべきかの。この馬鹿な若僧が、リグ坊の知り合いだったとはのう」
龍王は、少しも表情を変えなかった。
「生憎だったな。その男は質にもならんぞ」と、再び掌を向けた。
カリンダーラは、にやりとして、アシュナ皇子の襟首が掴み、ひょいと盾の代わりにかざした。
「…」
「質にならぬ？…ひっひっひ。ならば、何故撃たぬ？いつものおまえなら、かような無駄口も叩かず、問答無用で撃っていたろうにのう」
「単なる気まぐれ…と言っても、信用すまいな。そうだな。貴様の推量もまんざら外れではない。確かに、俺はそいつに借りがある。…だからと言って、貴様を見逃すほどの借りではない。その上で条件を付けたいならば、一つだけ聞いてやろう」
「豪儀じゃのう！ならば、おまえが持っている太古の宝鍵を、渡してもらおう」
「太古の宝鍵？…ああ、これか」と、懐から棒状の宝石を取り出して見せた。黄色の輝きが発散した。
カリンダーラの目の色が変わった。
「おおっ！それじゃ！それをこっちに渡せ！」
アシュナ皇子が叫んだ。
「駄目です！リグローン殿！それを渡せば、この世が滅びてしまいます！」
リグローンの脳内で、アシュナの言葉が一つの記憶に結び付いた。『この世が滅ぶ』災厄を開く鍵と、ダモンクランガータの封印石の上に眠るという大いなる災厄…である。
だとしたら、カリンダーラがここにいるのは、災厄の魔神を蘇らせるために違いなかった。
そうか。この辺り一帯の地脈の奇妙な歪みは、それが原因だったのだ。問題なのは、魔神とやらがもたらす災厄の大きさであった。世界が滅ぶというくらいであるから、尋常なものではあるまい。人の世がどうなろうと、知ったことではない。ただ…クインティアはひどく悲しむだろう。そして…。
龍王は、傍らのシャアク博士と目を合わせた。彼女は、にっこりと微笑み、
「わたくしは、弐代様を信じてございます」とだけ言った。
「当たり前だ」
リグローンは、カリンダーラへ向き直った。無造作に黄色の宝石を放り投げる。それは一二度跳ねてから、老導師の二歩ほど手前で止まった。
「俺の気が変わらぬうちだ。ぐずぐずしていれば、二人まとめて消し飛ばす」
「…よかろう」
導師は、アシュナを盾にしたまま歩を進め、それから慎重に身構えながら腰を落とした。干からびた細い手を伸ばす。その指先が、宝鍵に触れた瞬間であった。
宝石がふっと消え、
「うぐっ…」という呻き声とともに、カリンダーラがびくりと震えた。思わず、アシュナを取り落とした。血走った目を剥き、リグローンを睨みつける。
「お、おのれ…」
その胸に、棒状の宝石が深々と突き刺さり、辛うじて一寸ほどが顔を出している。
「ごぼっ…」と、鮮血が口から溢れた。
「アシュナ！さっさと離れろ！」
びくりと跳ね起きて、皇子が慌てて飛び退いた。
次の瞬間、凄まじい衝撃波が殺到し、岩壁を粉砕した。がらがらがらと、余韻で天井の崩れが続いている。
アシュナ皇子は、呆然として、目を瞬かせた。リグローンは、視線を素早く走らせると、険しい顔で傍らを振り返った。
「シャアク！奴めが逃げたぞ！どこへ行った？」
「ここから下方に痕跡が…しばし、お待ち…」と言いかけたが、アシュナ皇子の声が遮った。
「リグローン殿！鍵を法陣に運んだに違いありません！」
「どこだ！」
「右手下方に三層目の洞があります。そこに、宝鍵と対になる法陣が！」
「分かった！シャアク、道を開け！」
「はいっ」
彼女が床に手を触れると、光輝く円陣が浮かび上がった。そこに龍王主従が飛び込んだ。二人が消えると同時に陣も消え、広間にアシュナ皇子とデニーラが残った。
リグローンたちが暗い洞内に出現した時、既に空中に緋色の光を帯びた三角錘が形成されつつあった。その淡い輪郭が見る間に実体化していく。
光は急激に強くなり、やがて直視出来ないほどになった。同時に、三角錘から紫の太い雷電が何本も放出され、岩壁や床を絶え間なく撃っている。まるで、雷を巻き付けた大蛇の群れが、踊り狂っているかのようであった。
その傍らに、カリンダーラが幽鬼のように立っていた。胸からは、夥しい血が噴き出し、僧衣を真っ赤で染めている。足元の血溜まりが見る見る広がっていく。
リグローンは、僅かに唇を歪めた。
「心の臓を貫かれて、よくも生きているものだな。そうか。貴様、妖魔を取り込んだのだな」
「もはや誰にも止められんぞ！この世は綺麗さっぱり消えてなくなるのじゃ！」
「では、その前に聞いておこう。何故、村を裏切った？それ程までに、世界を滅ぼしたい理由は何だったのだ？」
「そうじゃのう。馴れ合いで殺し合う無限地獄に辟易したという所かのう。…いひひひ、分からぬか？白神の者もガドゥの者も、根は一つで通じておったのじゃ。我が家もその一つ。しかし、何も知らぬ身内はことごとく争いの中で死んでしもうた…」
「ふん。やはり、そんなところか。それでは、あんたも神とやらの掌の上で踊っていた口ということだな」
「小僧如きに何が分かるっ！」
「分からぬさ。神の思惑なんぞ糞食らえだからな」
「な、何…」
「だから、安心して往生するがいい。俺の名付け親に免じて、尻拭いはしてやろう。世界を滅ぼす魔神とやらは、俺が潰してやる」
「…たかが魔法使いにできるものか！」
「生憎だったな。俺は龍王だ」
リグローンの霊気が、急激に膨れ上がった。単なる魔法使いの域を遥かに超え、世界を焼き尽くすほどの強大な霊気である。
その身体が流線と化したかと思うと、次の瞬間にはカリンダーラの胸に深々と手を差し込んでいた。
カリンダーラの顔が驚愕に歪み、目が大きく見開いた。その胸から光芒が散り、老いさばらえた身体が細かい砂となって崩れ落ちた。
「狂気の影クドバか…」と、リグローンは自身の掌を見つめた。
「弐代様！」
シャアク博士が叫んだ。
「始まります。一旦、この場をお離れ下さい！」
「よかろう。さて、何が出てくるか。見ものだな」
その言葉の終わらぬうちに、二人を包み込む光の法陣が出現した。その姿が掻き消えると同時に、緋の三角錘から放射される雷電が一気に増大し、大爆発が起こった。
同じ頃、都大路では、大祭の花である姫巫女たちが、糸の切れた人形のようにばたばたと倒れていった。
一方、地の底。
その瞬間、クインティアは識域の奥底までも揺さぶる強烈な波動を感じ、心臓が止まりそうになった。それでも、気力を奮い立たせ、狭い急斜面を真っ逆様に落ちるように走り続けた。
ダモンの霊気が、目の前で大きく揺らめいた。
「始まった！…とく急げ！もう目と鼻の先じゃ！」
その言葉の通り、下方から黄金の光が射した。ダモンに感応しているのであろうか。何か光るものがある。急速に距離が詰まり、はっきりと見えてきた。オルン大神の紋章であった。
「剣とともに、そのまま突っ込め！」と、ダモンが叫んだ。
クインティアは、水斬りの太刀を構え直し、太刀先を光に向け突っ込んだ。胸の神器が熱く脈動し、太刀が不可思議な揺らめきを帯びた。
二人が光に呑み込まれた瞬間、地底そのものが大きく揺り動かされ、大地を割る轟音とともに崩壊し始めた。
低く重苦しい音が、世界全体を揺るがせていた。それが轟音に変わった時、聖地ヴェツムの中心たる島がゆっくりと陥没し始めた。白亜の岩の地面に大きな亀裂が走り、互いにぶつかり合いながら、ゆっくりと沈んでいく。天空に向かって聳え立つ尖塔群が、次々に崩れ落ち、濛々たる砂塵を上げた。
島に残っていた人々も、次々に地面に呑み込まれて行く。その陥没した巨大な穴に、周囲の湖沼から水が滝となって流入していった。
聖域の外周部の寺院群も、壊滅的な被害を受けていた。多くの建物は屋根全体が落ちたり、柱や壁が潰れたりしていた。ちょうど巡礼者が参拝する頃合いであり、生き埋めになったり圧死した者は数知れない。巡礼者ばかりか聖職者も我を忘れ、泣き叫びながら逃げ惑っている。頭や身体を負傷し、血まみれでなっている者も多い。
再び、不吉な音が足元から伝わってきた。さらに、先ほどよりも大きな衝撃が突き上げた。
中心の陥没穴が、ゆっくりとせり上がってきた。岩盤の砕ける異音が、大気を震わせた。裂け目が蜘蛛の巣状に走り、がらがらと崩れながら盛り上がっていく。先ほどまで屹立していた尖塔を超え、見上げるばかりの高さになった。
その小山がゆらりと震えた。表面を覆っていた岩石が一気に崩れ落ち、白くのっぺりした物体が姿を現した。まるで、龍が背を丸めて伏せているような形である。
よく見ると、完全な白ではなく、透明な鱗状のものでびっしりと覆われており、陽光を受けて、虹色の揺らめく光を纏っている。
鱗の中心には、目の形をした不気味な紋様が浮き出ている。それが身体全体を覆っているので、幾万もの目が開いているように見える。その巨体の下部には、四本の太い根のようなものが伸びていた。太さだけでも優に寺院の屋根を超えようか。見ようによっては、大蛇の胴から尾のようでもある。
再び、巨体がぶるりと揺れた。
鱗の中の瞳に光が宿り、数万のそれが一斉に動いて、周囲をぐるりと見回した。同時に、それらから目も眩む強烈な条光が放たれ、辺りを薙払った。聖域全体が地獄の業火に包まれた。崩れた寺院や並木はもとより、逃げ惑っている人々までもが、生きながらの松明となって燃え上がった。鐘楼から落ちた鐘が、高熱でひしゃげて、溶解していく。
白い巨体が重々しく動き始めた。四本の太い足が身体を僅かに浮かせ、うねりうねりと蛇のように波打たせて進んでいく。もっとも、巨体なるが故にそう見えるだけで、実際には人が走るよりも早い。
そこから一里（約二.二キロ)ほど離れた湖の上空では、青い髪の龍王が、巨大な魔神の様子を眺めていた。彼と博士の周りを、つむじ風が唸りを上げて巻いている。
「世を滅ぼす…とは、こういうことだったか。確かに、このままでは一月ほどでナラルハラムが焼き尽くされような」
「はい。では、直ちに仕掛けられまするか？」
「もう少し待とう。こちらも、思わぬところで、宝を掘り当てたようだからな」と、ちらりと湖面を見やった。
その辺りの水面が、沸騰したように泡立ち、白濁していた。その泡立ちが激しくなり、大きく盛り上がったかと思うと、天を突くほどの巨大な水柱が吹き上がった。水柱はそのまま上空に留まり、龍の形に変じた。それは、リグローンたちに顔を向けると、悠然と身体を波打たせながら近づいてきた。
リグローンの碧眼が水龍に焦点を合せると、心の奥底に声が響いてきた。
「地上が何やら騒がしき故、目を覚ましましたが。どうやら、間に合うたようでごさいまするな。新しき龍王よ」
「水龍ラヌグだな。ちょうど今から、祭が始まるところだ。ところで、はや俺を龍王と認めるか？」
「それはそれ。この祭とやらにて、お力を拝見いたしまする」
「よかろう。では、一つ盛大に行こうか」と言い、眼下の白い魔神を見据えて、大音声を発した。「グリナーラ！トーアカーマ！ティアワナク！龍王の名において命ずる！我が前に顕現せよ！」
彼の身体から、二筋の閃光が左右にほとばしった。光が消えた後には、灼熱の炎を纏った赤龍と、無数の紫電を帯びた銀龍が、長い巨体をくねらせていた。一方、シャアク博士も衣を引き裂きながら巨大化し、大地の龍に変身した。彼女の鱗は、一枚一枚が様々な色の貴金属や宝石から出来ているらしく、日の光を受けて、燦然と輝いていた。
青い髪の龍王は、自身の霊気を爆発的に燃え上がらせた。
「始めるぞ」と短く言い、次の瞬間には風の槍と化していた。続いて、四つの巨龍が左右に展開し、一つの槍となった。
先端に一瞬の霧の傘がかかり、続いて鼓膜を破るような爆発音が響き渡った。更に、速度が増した。
「へええ。あの青い奴、本当に龍王だったんだ」と、下界を見下ろしながら、デニーラが感心したように言った。
「リグローン殿…」
アシュナ皇子は固唾を呑んで、女妖魔の左手にしがみついた。
白い魔神の脇腹から、千を超える白熱の光条が迎撃した。その光の猛烈な弾幕をかいくぐって、音よりも速い風の槍が突っ込んだ。
閃光と爆発。衝撃波の輪が広がる。魔神の横腹が大きく変形し、山のような巨体が傾いたが、辛うじて踏みとどまった。拡散した爆風で、崩壊していた寺院の残骸が吹き飛んで天空に舞い上がるだ。
今、力のせめぎあいにより、熱く輝く境界が両者の間に生まれていた。魔神からの光の攻撃は止まっているものの、障壁は健在であり、龍族の獰猛なる侵攻を防いでいたのである。リグローンは、その障壁を食い破ろうと、全力を傾けていた。夥しい熱が絶え間なく放出されているために、激しい上昇気流が起こり、巨大な茸型の雲がむくむくと膨らんでいった。
リグローンの他にも、四つの龍が障壁に食らい付き、それを浸食しつつあった。百雷を合わせたような唸り声が、大気を震わせていた。
やがて、窪んでいた巨体の横腹が、徐々に元の形に復元してきた。
衝撃で白くなっていた何万もの目が、次々に回復してきた。それぞれの視線が龍たちに集まり、凶悪な光を帯び始めた。
「シャアク！」と、龍王は大地の龍に声をかけた。「俺に力を集めろ！」
金銀宝石の鱗を持つ龍が身を翻して、龍王の背後に位置取りした。辺りの大地から、目視できるほどの霊気が大きな流れとなり、リグローンに収束した。
彼の魔力が桁違いに跳ね上がった。
「うおおおお！」
雄叫びとともに、彼の前の障壁が赤変し、大きく彎曲したかと思うと、ぽっかりと穴が開いた。
リグローンが加速した。数千の眼が一斉に、一万度を超える熱線を放った。それを髪一重で避け、風の刃が魔神の背を僅かに切り裂いて突き抜けた。
交錯した魔神の熱線が湖を越え、都を見下ろす丘を直撃した。王宮が一瞬にして蒸発し、取り囲んでいる屋敷群が炎に包まれた。砂塵混じりの黒煙が、もうもうと吹き上がった。
魔神の眼がぎょろりと動き、灼熱の光線が包囲していた四龍を迎撃した。水龍ラヌグが、濃密な水の壁を起こし、視界を遮るとともに、強烈な光を散乱させた。
水は一瞬で濛々たる蒸気となって四散したが、既に龍たちの姿はなかった。
そこは一瞬前までは、色とりどりの花が咲き乱れ、澄み切った湧き水が穏やかに流れる美しい庭園であった。しかし、今は生命の痕跡の欠片もない炭化した土地であった。清水の湧いていた泉からは、灰色の水が人の背丈ほども噴き上げていた。すぐ近くの島が、陥没した影響なのであろうか。
泉の前には、泥に塗れた女剣士と黄金色の鵬（おおとり）が立ち尽くしていた。クインティアと、実体を取り戻したダモンクランガータである。二人は、崩壊する地底から、水脈を辿って、ようやく地上に帰還したのであった。
二人の眼前で、白い異形の魔神と四匹の巨龍が、死闘を演じていた。
連続する津波のような衝撃波と何千もの熱線が交叉し、周囲の全てを吹き飛ばし、焼き払った。自然物、人工物の区別はない。寺院の残骸、森、葦原が、粉砕されて飛散し、焼き尽くされて消えていく。猛烈な熱量によって、立ち上る煙と水蒸気が吹き上がり、黒い雲が急速に膨れ上がり、天空を覆っていった。黒雲に太陽が遮られて、夕暮れ時のような暗さである。まるで、この世の終わりを見ているようであった。
ふと、クインティアが我に返った。既に、戦いが一段落したらしく、龍たちの姿はなく、白い魔神だけが破壊の光を振り撒いていた。
「な、何がどうなっている？」
「何を見ておったのじゃ？青の殿、否、新しき龍王が、あの魔神に一当て食らわせたところよ」
「リグがか？…リグはどこにいる？」
ダモンは、嘴の先で彼方を指した。その方向に五里ほどであろうか。湖の上空に、龍が群れているのが見えた。
時折、強烈な灼熱光が直撃しているが、見えない障壁に散乱されて、極大期の明星が瞬いているように見える。ともあれ、彼は無事らしい。
彼女は、ほっと胸をなで下ろした。
一方、上空のアシュナ皇子は、身体の震えを抑えることができなかった。
「こ、これでは、本当に世界が滅びてしまいます。な、何とかしないと…」
「あはははは。何とかって、あんたに何ができるのさ？」と、デニーラが嘲笑した。「あれでも、ましな方だろうさ。龍王の奴、ングユヌの攻撃の殆どを自分たちに引き付けているからね。それにしても、あれも少しは痛い思いをしたのか、さっきから歩みが止まったようだ」
「…そうなのですか？ならば、リグローン殿は勝てるのですね！」
「さあね。さっきくらいのを千回も食らわせりゃあ、仕留められるかも知れないけど、あれも馬鹿ではないだろうしね」
「せ、千回も…ですか。それでは、このナラルハラム大陸が焼き尽くされてしまいます」
「あはははは。どっちみち、そういうことなのさ」
「何か、策はないのでしょうか？」
「それを、あたしに聞くのかい？もっとも、サティアが定めた滅びを、たかが策の一つや二つでどうにかできる筈もないじゃないか」
「…」
アシュナ皇子は、再び眼下に視線を向けた。
白き破壊の巨神は、恐ろしい熱線を四方に撒き散らしながら、灰燼と化しつつあるヴェツムから離れ、湖岸に沿ってしずしずと進んでいた。その重さのため、大地が軋る異音を発した。後には、ささくれ立った壮大な空濠が残っている。
ヴェツムの火災は、一時の勢いを失ったものの、依然として聖域の七割以上を覆っていた。黒煙と砂塵が舞い上がっており、視界が悪い。火の海から視線を転じた時、僅かなきらめきが射した。
…？
目を凝らして見ると、魔神が残した深い溝に沿って、うっすらと細い筋が見えた。色は雪のような白…否、白銀であろうか。破壊の焼け跡の中で、仄かな輝きを放っている。
寺院を飾っていた金銀の溶けたものかとも思ったが、焼け炭による曇りがない。それに、化け物の足跡を辿るように、点々と続いている。
アシュナ皇子は、妖艶な女鬼将に目を向けた。彼女は、龍王たちと化け物の対峙を、険しく睨みつけていた。
「さあ、龍王め、次はどうする？」
皇子は、彼女の袖を引いた。
「あ、あの。デニーラさん。少し気になることがあるのですが」
「…なんだい？言いたいことがあれば、とっとと言いな」と、振り向きもせずに言った。
「あの魔神の這いずった跡に、妙な筋が曳かれているのですが…」
「妙なって、また…」
デニーラは、不機嫌そうに振り向くと、アシュナ皇子の指差す方向に目を向けた。その焦点が地上の一点に定まる。険しかった眉が緩み、口元には笑みさえも浮かんだ。
「へええ。あんたってば、ただのへたれかと思ったら、目端だけは利くんだ。まあ、これで少しは面白くなるかも知れないねえ」
「どういうことですか？」
「アシュナも、それが知りたいんだろう？」
皇子の返事も待たずに、女鬼将は彼の襟首を掴んで、急降下した。
その時、クインティアラーダヴァルキーアは、天空から降下してくる妖気を感じて、近くの物陰に姿を隠した。ダモンも神気を隠し、仄かな小さな々炎に変じて、彼女の肩に止まっている。
ぽつんと小さな点が、降下とともに見る見る大きくなり、二つの人影となった。一つは妖美な鬼女の姿をしており、もう一つはアシュナ皇子であった。
二つの人影が深く抉れた大地の底に降り立つと、彼らを取り巻いていた魔風が散り、周囲の泥水を跳ね飛ばした。女鬼将は少し乱れた髪を掻き上げ、皇子を残して、奇妙な銀色の筋に近づいた。
それは、まるで水銀を引いて流したかのようであった。太いところで、人の胴くらいであろうか。長さはまちまちで、点々と化け物の方に向かって続いている。何かしらの呪力を帯びているのか、それ自身が淡い光を放っている。表面に土砂がかかっていないところから、大地が抉られた後に流れたものであろう。
デニーラは、長い爪の先で、その表面に触れてみた。ばちっと火花が散り、雷を受けたような衝撃が来た。爪の先から薄い煙が立ち上った。
「デニーラさん！」と、アシュナ皇子が駆け寄ろうとして、何かにつまずいて転んでしまった。
「あ…いたたた」と言いながら、右肩を庇いながら立ち上がる。その視線が、泥の中に埋まっている何か透明なものを捉えた。
「？」
無傷の左手で端をつまんで引っ張ってみると、泥の塊がずるりと動いて落ちた。そのまま持ち上げて、残った泥をふるい落とした。大きさは盾ほどで、卵型のやや湾曲した硝子板のようである。否、硝子よりはずっと軽い。注意深く見れば、銀色の細工か何かで、文字か紋様のようなものが、びっしりと彫り込まれていた。
「へえ…。なるほどねえ」と、いつの間にか近づいていたデニーラが、得心した風に言った。
「何が『なるほど』なのですか？」
「これが何か分かったのさ」と、地面の銀筋を差した。「これは血なんだよ。あの破滅の使神ングユヌのね。そして、あんたの持っているそれは、奴の鱗だ。その鱗が剥げ落ち、血を垂れ流したままということは、恐らく再生の効かない傷を負っているのだろう。もしかしたら、あんたが結鎖にした悪戯が、効いているのかも知れないねえ。そうさ。完全体じゃないんだよ。あはははは」
「…完全体ではない？では、あの魔神にも弱点があるということですね？」
「まあね。その前に…」と言いながら、デニーラは地溝の崖の上に目を向け、声を張り上げた。
「おい！そこの奴、こそこそ隠れてないで、姿を見せたらどうなんだい」
クインティアは、崖の縁から立ち上がり、水斬りの太刀を背負った鞘にするりと収めた。眼下の女妖魔には、奇妙なことに殺気が感じられなかった。そればかりか、何故かアシュナ皇子が一緒にいて、全く臆する様子もなく言葉を交わしていたのも妙だった。
「ダモン」と声をかけると、肩に乗っていた炎の霊気が実体化し、馬車ほどもあろうかという鵬に変じた。彼女が、その背に飛び乗ると、巨大な翼を広げ、ふわりと宙に舞い上がった。
そのまま降下し、アシュナたちの前に来ると、クインティアは鵬の背から飛び降りた。
ちらりとアシュナを見る。右肩を負傷しているが、大事はなさそうだ。彼は相変わらず人のよさそうな笑顔となり、片腕ながらもナパーシカ流で丁寧な辞儀をした。
目の隅で、女妖魔の髪がふわっと膨れたように見えた。視線を戻すと、何を考えているのか読めない暗黒の目が、見返していた。
クインティアは、努めて悠然たる笑みを作った。
「先ほどは、私を呼ばれたようだが、ご用件を承ろうか」
「そんなの、あれに決まっているじゃないか」
女妖魔は顎で白い魔神を差した。
「どうせ、あんたも、あれに一枚噛んでいる口なんだろう。…それとも、これから噛むのかねえ？懐に妙な気を抱えているわ、そんな供まで従えているってことは…さ」
「ほう。そこまで言うのか？…だとしたら、あれの急所でもご教授願えるのかな？」
「あはははは。いきなり、そう来るとはね。さすが、アシュナの血族だよ。それにしても、破滅の使神ングユヌを目覚めさせたのが龍王で、その場に神鵬を従えた人間の女が居合わせたってか？…はははは。ならば、あんたは第三の主ってところか？」
「…」
「心当たりあり…か」
デニーラは、もさもさと髪の毛を掻いた。ふうと溜め息をついた。
「まったく、こうも役者が揃うなんて、もう洒落どころじゃあないね。…世の真なる滅びって奴が、本当に来たってことになる」
「…」
「そうでなければ、この大陸が食らい尽くされるのを、高見の見物していれば良かったのだけどね。…だから、あたしだって、たまげてた腰を抜かした口なのさ」
クインティアは、笑みを漏らした。
「ふふふふ。何かと思えば、オルン神族といい、アゴル神族といい、リグ…いや、龍王の言っていたように、暇を持て余した酔狂のようだ。人の知恵の及ばぬこの世の筋書きを、もったいなくも、説法してくださるらしい。私を呼んだということは、そういうことなのだろう？」
デニーラは、一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔一笑した。
「あははは！面白い、面白いねえ。おかげで、気が変わったよ。ちょいとした手懸かりくらいは、教えてやろうかとも思ったが…。そこまで言うからには、人の力を見せてご覧よ」
クインティアは笑みを消すと、深いささくれ立った濠を見渡した。目の前に水銀を垂らしたような筋が、化け物に向かって点々と続いている。このような筋は、見る限り、ここだけであった。
アシュナに視線を転じてみると、彼は半透明な盾のようなものを抱えていた。否、盾ではない。その表面に、細かい銀の紋様が隙間なく彫り込まれていた。
はて？どこかで見たような…。
あ！
ダモンの封印を目指して、地下を駆けていた時に見た奇岩の群れのものとよく似ている。それに、この銀の筋が帯びている微かな妖気は、地底で感じたものと同じである。女妖魔の意味深長な物言い、アシュナの抱えているもの。これらを考え合わせると、『あの化け物が、何らかの理由で傷を負っているのではないか』という可能性が思い浮かんだ。
女妖魔に再び視線を向けると、その大きな目が針のように細く光った。先ほどまでの陽気な笑みが消えている。
「人の力を見せよ…と言ったな？」
「ああ、言ったともさ」
「ならば、こう返そう。人でないものに人の力は分かるまいと」
「いい答えだねえ。で、どうするんだい？」
「為すべきことを行うのみ」
クインティアは、鵬の姿のダモンクランガータに向き直ると、凛とした声で言い放った。
「行くぞ！」
「くくく。止めても聞かぬか。ならば、我も為すべきことを行うだけじゃ。汝、クインティアラーダヴァルキーアの翼になりてくれよう」
ダモンの身体が光の球となって、クインティアを包み込んだ。その輝きはすぐに穏やかになり、淡い輪郭をかたどった。紅炎を思わせる大きな翼が、彼女の背から左右に伸びていた。半透明で実体がなく、刻々と表面の色合いが変化している。翼の根は、彼女に直接触れている訳ではなく、背に近い宙空から伸びていた。
「この方が思う存分飛べるであろう」と、ダモンの声が心に響いた。
「行くぞ」
クインティアが再び言うと、炎の翼が大きく開いた。暴風が巻き起こり、白く細い筋が天空の黒雲を突き抜けた。
クインティアは、目を大きく見開いたまま、声を失っていた。押し潰されるような強烈な加速の後、一瞬で黒雲を通過し、星空のただ中に飛び出していた。
昼のはずなのに星がはっきりと見える。
下方を見ると、視界の半分を青みがかった球面が占めていた。下方に広がっているのは、ナラルハラム大陸であろう。真下にはほの暗い雲海が張りついており、その右手に見える濃青の領域は、シャームナル湖であろう。あちらこちらから険しい峰が突き出ており、冠雪やゆったりと流れる氷河が白く浮き上がっている。
薄く霞んでいる地平線近くには、弓なりに海が続いていた。
天井には、圧倒的な数の星々が燦然と輝いている。地上で見る数の優に十倍の数はあろうか。どれも瞬くことなく、安定した輝きを放っている。
クインティアは、目をぱちくりした。
ダモンの笑い声が響いた。
「はははは、すまぬのう。この身体もひさかたぶりなのでの。少しばかり加減を誤ったようじゃ」
「すまぬではないぞ！すぐさま元の場所に戻れ！」
「相分かった。ならば、もうそっと緩やかに行くとしよう」
言うが早いか、視界が転回し、灰色の雲海が真正面になった。急激な落下に移った。
ぐっ！首が逆に振れるのを必死で堪える。
彼女を包み込んでいる見えない壁により、大気が裂かれて赤熱し、眩い光の帯を曳いていく。風切り音も雷鳴のような凄まじさである。
雲が迫ってきたかと思うと、一瞬で突き抜けた。湖沼と森の大地が目の前に広がった。
急激に軌道が曲がり、脊椎が折れそうなほどの圧力がかかった。白い筋雲が弧を描いて、地表を掠めた。その後で、粉砕された樹木と土砂が煙となって舞い上がった。
速過ぎる！
地上のもの全てが形をとどめず流線となって、物凄い勢いで後方に過ぎ去っていく。
前方に、白い小山のようなものが見えたかと思ったら、一瞬で通過し、視界から消えてしまった。あの破滅の魔神であろう。
「これでは、様子が分からないではないか！」
「ふん。あやつの光の槍に貫かれても知らぬぞ」
「構わぬ」
答えはすぐに返らなかった。一呼吸ほど待ってから、
「では歯を食いしばるがよい。舌を噛まぬようにな」と声が響き、次の瞬間、急旋回に入った。強烈な圧力が掛かり、身体中の骨が軋んだ。
ふっと身体が軽くなったかと思うと、すぐに巨大な白い塊が迫ってきた。
軌道が上下左右に不規則に揺れる。魔神の巨体から、十を超える閃光が放たれた。それが一瞬にして大気を歪ませながら掠めていった。
ダモンの翼は、魔神の脇腹を掠めるようにすり抜けた。白熱の光芒が、束になって追いかける。その間隙を縫って、白い筋雲が稲妻のように伸びていき、やがて急上昇に転じて厚い雲を突き抜けた。
「ダモン。もう一度だ。もう一度、奴の脇を飛んでくれ！」
「何じゃと！死ぬ気か？」
「あやつの銀の血は、左側の前後どちらかの足から流れている。今の通過で、そこまでは見切った。しかし、前足か後ろ足かを見定めるには、もう一度、見る必要があるのだ」
「…」
「ダモン！」
「ふん。目を回すでないぞ」
言うが早いか、急反転して降下に移り、再び雲に突入した。気流の乱れで軌道が揺れたが、すぐに雲が切れ地上が広がった。
例の白い魔神が見る見る大きくなった。
再び、数え切れないほどの閃光が、濃密な弾幕で迎え撃った。ダモンの翼が不規則に軌道を変え、紙一重ですり抜けていく。地上に激突する寸前に向きを引き起こし、超低空で弧を描きながら、化け物の傍らを掠めていく。
脇腹に並んだ無数の目から光芒が放たれる。巨体が身体を曲げて、ダモンの翼を追いかけて向きを変える。その足が地面をえぐり、ずるずると滑る。やや後足の動きがぎこちなく見えた。
次の瞬間、灼熱の光が行く手を薙払った。火山が噴火したように土砂や燃え木が、吹き上がって、壁となって立ちはだかる。
慌てて急上昇に転じたが、速度が一瞬緩んだ。魔神の無数の目の焦点が一点に集まり、凶暴な光を帯びた。
や、やられる！
クインティアは、心が硬直するのを感じた。時間が止まったようにゆっくり流れていく。強烈な光の束が溢れ、視界に充満した。
気がつくと、雲を抜け、再び星空のただ中に飛び出していた。
「え…？」
まだ、生きている？目を丸くしながら振り向くと、そこに龍王がやや後方について飛行していた。二つの筋雲が紫の空に軌跡を描いていく。
彼が盾になって助けてくれたらしい。
「リグ！」
ダモンが速度を緩め、静かに停止した。その横に、リグローンがぴたりとついた。
「ありがとう。また、助けられてしまったな」と、クインティアが声を落とした。
「…」
龍王は、いつものように感情を表さぬまま見返していた。…否。少し違う。心なしか怒気を含んでいる気がする。
「…？」
「見たところ、ダモンを無事に解き放ったようだが、それにしても随分と無茶をするものだ」
足元の雲海を突き抜けて、四つの巨龍が上昇してきた。龍たちは幾筋もの湯気のようなものを曳きながら、二人の四方にぴたりとついた。湯気と見えたのは、焼け焦げた鱗を急速に治癒しているためらしい。見る間に、綺麗な鱗に修復されていく。
クインティアは、ほっと息をついた。
「すまぬ。要らぬ手間をかけさせたようだ」
「それよりも、先ほどの無茶には訳があるのだろうな。命を懸けて仕掛けたにしては、一撃も加えていなかったのは何故だ？」
「…一つ確かめたいことがあった。…あやつの泣きどころかも知れぬ」
クインティアは僅かに目を細めた。