「銀の矢」

Copyright (C) : Toyoaki Furusawa, 1998-. All Rights Reserved.


一、夢見る石

 時は一九九九年夏。
 日差しの強いギリシャのアテネ空港に近づきつつあるジャンボ機の二階席に、一人の若者が座り、物珍しげに眼下の風景を眺めやっていた。
 名前は李凱永(リ・カイヨン)。豪奢なファーストクラスに不似合いな着古した背広を身につけ、色褪せたネクタイを窮屈そうに締め、革張りのゆったりした席にかしこまって座っている。どう見てもビジネスマンという雰囲気ではない。精悍な顔つきと短く刈られた髪からスポーツマンと見えなくもないが、筋骨隆々というわけでもない。
 今、高度は千メートルほどであろうか。乾燥した灰色の大地が次第に間近に見えるようになってきた。樹木はまばらで、潅木の色褪せた緑が無機質の大地に点在している。そこに、飾り気のない家屋が積み木を散らかしたように雑然と張り付いていた。
 機は更に高度を落としながら、着陸体勢に入った。エンジンの音が高まり、機首が僅かに上がった。やがて、どーんという着地の衝撃が訪れ、耳につく逆噴射の音と急制動がきた。機は滑走路を外れて、ゆっくりと空港ビルに向かった。
 李凱永がこの地を訪れたのは、つい一週間ほど前に祖父の李厳義に届いた一通の手紙がきっかけであった。差出人は曹基雄という華僑であり、その署名の上に「請来」という文字だけ書かれ、アテネまでのイグゼクティブ航空券と十万米ドルの小切手が同封されていたのだった。(註一A、B)

 李凱永は、空港のターミナルでしばらく待たされた後、一杯に膨らんだ手提げかばんをベルトコンベアからひょいと拾い上げ、それから入国審査と税関を通過すると、到着と出迎えの人でごった返すロビーに出た。休暇で訪れたらしい英国人や北欧系の人々、団体行動をとっている日本人観光客の群れ、土着のギリシャ人やアラブ系の人々などが、口々にそれぞれの言語を発しながら交錯している。
 李凱永は、来ているはずの出迎えを求めて、左右を見回した。近くにあるのは英語やギリシャ語のプラカードだけである。その後方に目を向けると、ロビーの出口付近に派手な赤い革コートの美女が見えた。歳は二十くらいの中国娘で、さらりとした黒い髪を背中まで流している。その隣には、中国人らしい黒い背広を着たのっぽが、いかにも「ボディーガード」然と控えており、漢字で「李厳義老師」と書いた紙を持っている。
 李凱永はにっこりとして、すたすたと娘の前に近づいた。
 のっぽがじろりと睨み、娘の方は不思議そうに李凱永を見つめ返した。
 李凱永は、背広の裏ポケットから曹大人の手紙を出して見せた。娘は手紙を一瞥してから、相棒に手渡し、
「どうこと?李厳義は、もっと年寄りのはずよ」と囁いた。
「さ、さあ?あっしにも…」
 娘は、李凱永に向き直った。
「あなたは?」
「爺の代りに来た李凱永ですだ。どんぞ、よろすく」と、強いなまりの返事が返った。
「代り…?李老師はどうされました?」
「食あたりで寝込んでいるだあよ。年寄りのくせに、食い意地が張っているでな。それで、隣のばっちゃに世話を頼んで、おらが代わりに来ただ。爺が曹大人には義理があるっちゅうもんでよ」
「…病気ですか。それなら仕方ありませんね。父がどう言うかわかりませんが、ついて、おいでなさい」と言って、くるりと背を向け、すたすたと歩き出した。
 李凱永は、手提げかばんを抱え直して、後を追いかけた。

 娘とのっぽは、玄関前のロータリーに止めてあった黒塗りのリムジンに乗り込んだ。
 李凱永は大きなかばんをトランクへ放り込むと、後部席に乗り込み、娘とのっぽの向かいに腰を降ろした。運転席の小柄なギリシャ人が片言の中国語で、「出発するアルよ」と言いながらぐいっとアクセルを踏み、車はタイヤを鳴らしながら走り出した。
 ロータリー広場をぐるりと回ってから、リムジンは首都アテネへと向かう幹線道路に乗り入れた。
 娘は、すぐに携帯電話をとり、早口で何やら話していた。ギリシャ語らしく、李凱永には理解できなかったが、雰囲気から察すると、相手は曹大人であり、李厳義の代理が来たという報告をしているらしい。この会話は一分ほどで終わった。
 李凱永は流れ行く道の風景に目を向けた。そこには、見慣れぬギリシャ文字の看板がずらりと立ち並んでいた。英文字とはまるで雰囲気が違う。町並みには華美さはなく、歩道や街路樹なども余り整備されていない。その雑然とした雰囲気の中に、抜け目無さと逞しさが感じられた。
 リムジンは、中層ビルの立ち並ぶ都心に入った。目抜き通りと広場を通り過ぎ、渋滞や雑踏を幾つか越えた。そして、いつの間にか裏の路地に入り、住宅街を走り抜けると、別の幹線道路に入った。
 左手に海が見えてきた。目に染みるような真っ青な色である。
 奇妙なことに、車の中では誰も喋らなかった。
 十分ほどで車は脇道に入り、小さな町を抜けて、岩肌を露出させた山並みを目指した。曹大人の屋敷はその中腹にあった。その四方をものものしい高塀に囲まれ、正面には城のように立派な門を構えている。白亜の建物の上層が高塀の上に突き出して見える。門や塀のあちらこちらには監視用ビデオカメラが備え付けられていた。
 リムジンが門の前に止まると、鉄の門扉が重々しくスライドして開いた。
 内側に入ると、見通しのよい芝生の庭になっており、放し飼いにされたドーベルマン犬が所々に寝そべっていた。
 車が建物の玄関先に停まり、召し使いたちが飛び出してきた。彼らは、リムジンのトランクから大きなかばんを引っ張り出すと、そのまま建物の中に消えてしまった。
 車からは娘が先に降り、のっぽ、李凱永と続いた。彼女はのっぽにギリシャ語で何事かを呟いてから、李凱永に冷ややかな声で、
「こちらへ」と言い、先に立って歩き始めた。
 李凱永は、のっぽに目を向けたが、男が先に行けというふうに手を振ったので、愛想笑いを浮かべながらぺこりと頭を下げ、娘の後に続いた。それから三歩ほど距離を取って、のっぽが追いかけた。
 彼らは、赤い絨毯が敷き詰められた通路を進んだ。壁際には、値段の張りそうな水墨画が幾つも掛けられていた。青磁の大きなつぼも五メートルおきに飾られていた。
 三階まで吹き抜けた広間に出た。
 その時である。
 のっぽが音もなく李凱永に迫り、背後から右拳を突き入れてきた。李凱永の身体がぱっと翻り、男の拳が突き抜けたように見えた。かわしたらしい。さらに、のっぽの左拳が追い突きする。
 李凱永は飛燕のように飛び退き、邪気のない笑みを浮かべながら、いつの間にか手にしたナイフをひらひらと見せびらかした。
「あ、ああ。…俺のナイフ」
 のっぽは、慌てて内懐を探ったが、彼のナイフホルダは空であった。さらに、背広の左腕が肘から袖まで一文字に切り裂かれているのに気づくと、彼の顔から血の気が引いて真っ青になったものである。腕には傷はなく、血の一滴も流れていない。李凱永は、あの一瞬のうちに、ナイフを抜き取りざま、布一枚だけを切り裂きながら飛び退いたらしい。
「ほらあ、けえすだあよ」と、のんびりした声で言いながら、李凱永はナイフを投げた。それがのっぽの足元に突き立り、尻を震わせた。

 頭上から、ぱち…ぱち…と枯れた拍手が聞こえてきた。
 見上げると、二階の袖に、白い髭をたくわえた老人がにこにこしながら立ち、ゆっくりと手を叩いている。曹基雄その人らしい。
 李凱永はぺこりとお辞儀した。
「二階へ…」と、娘の静かな声が促した。
 李凱永は、真顔になると階段を登り、老人と向かい合った。老人の背後には、三人の護衛が控えている。左脇下が不自然に見えるので、拳銃を隠しているらしい。
 曹大人は、白い顎鬚をさすりながら言った。
「わしが曹基雄じゃ。まずは、いきなり試した非礼を許してもらいたい。本当に厳義の代理に値するかどうか確かめたかったのでな」
「…」
「ふぉっふぉっふぉ」と笑い、老人は目を細めた。「おまえの顔は、厳義の若い頃によう似ておる。…名は何という? 」
「李凱永ですだ」
「厳義の息子か?」
「孫ですだよ」
「…そうか。孫か。あれから四十年以上にもなるのじゃものなあ。あの時、わしは、あやつを二度と厄介事に巻き込むまいと心に決めたものじゃったが、今や、そうも言っておれぬ仕儀となってしもうたようじゃ。たとえ、あやつ本人でなくてもな。死神李を継ぐ者であれば…」と、老人は李凱永の目をじっと見据えた。
「…おら、まだ、引き受けるって決めた訳じゃねえですだ」と、李凱永は懐から十万ドルの小切手を出して見せた。「仕事さ気に入らねば断ってこう、って爺が言ってたで」
「ここまで来て、断れると思うのかのう」
「爺は遠慮するなって言ってただ」
「ほうほう。あやつらしい言い草よ」と呟いてから、老人はゆっくりと向きを変え、ひょこりひょこりと歩き出した。三人の護衛が背後を守るようにして続いた。
 李凱永がぼうっと立っていると、例の娘が「どうぞ」と促しながら老人の後を追ったので、彼もとぼとぼとついて行った。

 護衛の一人が先回りして、最寄りの扉を開けた。続いて、護衛、曹老人、娘、護衛という順に入り、最後に李凱永が招き入れられた。
 部屋の中央には大理石を滑らかに削った円卓が置かれ、周囲に分厚い革張りの安楽椅子が並べられていた。奥の壁には薄い大型テレビが掛けられ、右手の壁には書棚が埋め込まれていた。
 さて、曹老人は一番奥の席に大儀そうに腰を下ろした。護衛と娘がその両脇に立ったまま控えている。李凱永には老人の真向かいの席を示されたので、彼は居心地悪そうに背筋を伸ばして腰掛けた。
「玲凰、あれを出してくれ」と曹老人が言うと、玲凰と呼ばれた娘は壁の書棚を左右にスライドさせ、中に隠されていた金庫を開け、絹張りの小箱、新聞の切り抜き、ビデオテープ、黒い短剣を取り出して、円卓の上に置いた。
 曹老人が小箱を開けると、中には不思議な色合いの宝石がきらきらと耀いていた。大きさはウズラの卵ほど、淡い紫色というのであろうか、幽かに血の色を思わせ、人の視線を引き込むような妖しい光を帯びている。
「これが厄介事の種らしいのじゃ。半年ほど前になろうかのう。顔なじみの情報屋が、『どうしてもまとまった金が欲しい』と頭を下げて言うてきたでの、話を聞くと、どこぞの山にある邪教の神殿から盗んできたものらしい。何でも『夢見る聖石』と呼ばれていたものじゃとか。まあ、古い付き合いでもあったし、確かに本物のダイヤじゃったので、それ相応の金で買ってやったがの。…問題は、その後じゃった」(註一C)
 曹老人は、ふうと息をついてから、玲凰に目で合図した。彼女は、新聞の切り抜きを取り、李凱永の前に置いた。ギリシャの新聞なので内容までは判らないが、一枚の男の顔写真と妙な記号の絵が一緒に掲載されていた。
「その男があの情報屋よ。二月ほど前に、アテネの自宅で不可解な死を遂げたわ。黒塗りの剣で手足と首の五箇所を刺し貫かれ、床に磔られてね。その回りには、彼の血で魔法陣のような奇妙な記号が書きなぐってあったそうよ。まるで、悪魔の生け贄にされたみたいにね」
「…ふうん。それじゃあ、邪教とやらの仕業と、言うだかね?もしかして、その短剣と同じもので殺られたとでも…」 
「どうやら、そういうことらしいわね。まずは、これを見て」
 玲凰がビデオカセットを壁のプレーヤーに押し込み、最初に巻き戻してから再生させた。モノクロの暗い映像が壁掛けテレビに流れ始めた。門の監視カメラの映像らしく、無音である。時刻が右上隅に表示されているのを見ると、一月ほど前の夜の出来事のようだ。
 李凱永は目を細めて画面を見つめた。
 門の暗がりが僅かにゆらめいたようである。やがて、それがゆっくりと膨れ上がり、一つの人影となって滲み出てきた。その者は、黒い衣で力士のような大きさの全身を覆っていた。そして、我が庭を散歩でもするように、しずしずと画面を横切って行った。
 映像が途切れ、玄関の場面に切り替わった。
 黒い影が再び現われ、玄関の扉に近づくと、ノブに手をかけた。次の瞬間、ノブがぐにゃりと捻じ曲がったかと思うと、錠と共に引き抜かれて、投げ捨てられた。影は、その穴に指をかけて扉を開けようとした。しかし、別の錠が施されているらしく、扉は僅かに歪んだだけで開かなかった。
 やがて、左右から短銃を構えた三人の男が現われて、黒い影を取り囲んだ。影の輪郭が震えたように見えた。男たちが人形のように固まり、影は一人の胸に棒のようなものを突き立てると、くるりと向きを変え、再び夜の闇の中に溶け込んでしまった。
 玲凰は、リモコンでビデオのスイッチを切った。
「殺られたのは、陳という若い衆よ。この剣で、心臓を一突きにされてね」と、目で卓上の短剣を指した。
「ふうん」と、李凱永は黒い短剣を手に取って見た。刃は鈍く、束に妙な文字で刻印されていることから見て、武器というよりも儀式用のものらしい。
「生き残った人たちは、何て言ってるだか?鉄砲まで持ってただに…」
「…身体が金縛りにかかって動かなかったのだ。指一本さえも、動かせなかった。あの化け物がいなくなるまではな」と呻くような声が遮った。曹大人の護衛が、映像の中の一人らしい。
「犬っころたちは?」
「尻尾を垂れて腰を抜かしっておったわ」と、忌々しげに老人が言った。「どいつもこいつも役立たずという訳じゃ。今度、あの化け物が来おったら、わしらは木偶のように皆殺しにされるじゃろうな」
「それで、おらに化け物退治をさせようってだか」
「犬どもや、ここにおるボディガードよりはましじゃろうて。…もう五十年以上も前になろうがの。李厳義が若い時は、たった一人で日本軍の一個中隊を壊滅させたものじゃったよ。おかげで、わしは命拾いをしたものじゃったがな」
「ふうん。うちの爺も化け物だかんなあ」
「おまえさんは違うのかい?」
「おらは、まだまだだあよ」と、李凱永はぼりぼりと頭を掻きながらにんまりとした。

 それから夕食までの間、玲凰に案内されて、李凱永は屋敷のあちらこちらを見て回った。三階建ての本館だけでも部屋数は四十近くもあり、別棟と庭を一巡りした時には、日が暮れ果ていた。
 最後に、彼は豪華な造りの食堂に通された。既に、丸いテーブルには、今まで見たこともないような山海の珍味が中華風や当地風で料理されずらりと並べられていた。。しばらくすると、曹大人や玲凰を交えた会食が始まったが、李凱永は、勧められた何とかザーカや葡萄酒などには口をつけず、肉饅頭と果物をいくつか食しただけで、「時差ぼけ」と称して、すぐに割り当てられた部屋に引き篭もったものである。

 李凱永の部屋は本館南側の二階に割り当てられていた。例の吹き抜けの広間に面した部屋であり、窓からはナトリウム灯のオレンジ色の光に浮き上がった広い庭や門が一望できた。その先には、人家の灯りがぽつぽつと散らばり、次第に密度を増しながら、海岸沿いの賑やかな光の群れに連なっていた。
 澄み渡った星空に大きな満月が浮かんでいた。
 それにしても、この屋敷の雰囲気は尋常なものではなかった。祖父の厳義の話では、かつて、曹老人は大陸の闇社会を仕切っていた大立物だったそうだが、今も似たような家業を営んでいるのだろう、この世界特有の胡散臭さが屋敷のあちこちに染み付いていた。
 李凱永は、周囲の暗闇に目を凝らし、空気の臭いを嗅ぎ、耳を澄ませてみた。…今の所、妙な気配は感じられなかった。犬たちもおとなしくしているようである。『いくら何でも、ここに到着して、いきなり、あの化け物がやって来ることもあるめえだよ』と、彼は時差ぼけの頭で考えながら、背広を脱ぎ捨てた。
 そして、ベッドから毛布を一枚だけ剥ぎ取り、いつものように部屋の隅に隠れるように座って壁にもたれた。
 …浅い眠りが訪れた。

 李凱永は不思議な夢を見た。
 最初、夢か現実かわからないような混乱した感覚の中で、部屋の隅で寝ている自分の姿だけが見えていた。やがて、ベッド、壁、床などが透けて、この屋敷の庭や建物の全てが見えるようになった。それらにも透明感があり、『やっぱり、夢だあよ』と、ぼんやりした思考が浮かんだ。
 そのうちに、屋敷や庭の透明感が増し、何もない岩山の斜面になった。いつの間にか昼に変わっている。本当なら荒れ果てた岩山のはずなのだが、鬱蒼とした木々や丈高い草で覆われ、色とりどりの草花が咲いていた。遠い町並みや、道路は跡形も見えなくなっている。
 李凱永は、不思議な安らぎを覚えながら、その風景を眺めていた。
 やがて、山の頂から一陣の風が吹き降ろしてきた。その風に乗って、十人ほどの白い半透明な人影が斜面を駆け下りてきた。精霊のようでもあり、天女のようでもあった。それらが幻のように李凱永の目の前を通り過ぎて行った。
 突然、大地を揺るがすような角笛の音が響き渡った。
 その瞬間、ふっと目が覚め、部屋の隅でうずくまっている自分に返った。
 窓からナトリウム灯の光が僅かに射し込んでいたので、ぼんやりと部屋の様子が見て取れた。夢の中の非現実感が消えたので、彼は毛布を払って身を起こした。腕時計を見ると、午前一時を回ったところである。思いもよらず深く寝入ってしまったようだ。
 腕にはぶつぶつと鳥肌が立っていた。
 彼は窓際に立ち、ナトリウム灯に照らし出された庭を見渡した。…特に、変った様子はない。ただ、しんと静まり返っているだけである。
 李凱永は怪訝な表情になった。かすかに血のにおいがする。それに、異様に静かであった。犬が何頭もいるはずなのに…。
 その時、広間の方から小さく鈍い音が聞こえてきた。金属音のような、何かをへし折るような音である。
「ちっ!」
 李凱永は部屋から広間の吹き抜けに飛び出した。
 最初に目に入った光景は、金庫のある部屋の前にいる大男と、その開け放たれた扉であった。背丈は二メートルはあろうか、黒いマントとフードで身体と顔を覆っている。その右手でぐったりした人間を高く差し上げている。首が異様に捩じれているので、既に死んでいるのだろう。
 李凱永は音のない疾走に移った。
 黒マントの男が、彼の気配に気づいて振り向いた。フードに隠れた顔は暗くて見えない。それが、右手に持った死体を投げつけてきた。
 李凱永が死体を紙一重でかわしながら、右の指を鋭く弾いた。小さい鉄片が矢のように敵の顔面に飛び込んだ。飛蹄という手裏剣の一種である。
 背後で、死体が転がった。
 黒マントが、「ぐうっ!」と唸り、手で顔を押さえた。李凱永が弾丸のような体当たりをかけた。ドンという音がして、黒い巨体が弾けるように飛び、手すりを突き破って階下に落下していった。雷鳴のような大きく重い音が響き渡った。
 李凱永は、手すりの破れた所から、階下に飛び降り、ふわりと着地した。そして、手に次の飛蹄を握り締めながら、じっと敵を観察した。
 黒マントの男は、大理石の床にぐったりと横になり、手足を幽かに痙攣させていた。右の手が大きく捩じれているので、骨が折れているのだろう。頭からも出血し、床に小さな血だまりを作っていた。常人ならば、意識はないはずだった。
 突然、その男が跳ね起きた。口を大きく開け、全身に荒々しい力をたぎらせながら叫んだ。それは耳には殆ど聞こえないほど低い叫びだったが、津波のような衝撃で李凱永の全身を揺さぶった。身体中の神経網が凄まじい重圧によって寸断され、金縛りの状態に陥った。
 黒マントが、左手で黒い短剣を構えながら李凱永に突進し、その心臓めがけて突き出した。
 その瞬間、李凱永は舜意功という特殊な意識状態に入った。祖父から受け継いだ刹神拳の奥義の一つである。
 時間の進行が十倍も遅く感じられた。その代り、音が聞こえなくなり、周囲の光景も色を失いモノクロとなった。視覚聴覚触覚に関わる情報処理を最小限にし、動体認識や運動神経の作用を極限にまで高めるためである。
 敵の動きが亀のように遅く見え、真っ黒な短剣がゆっくりと近づいてきた。
 李凱永は、右の指先に神経を集中し、力を込めた。しかし、金縛りが効いていて、思うように動かせなかった。その間にも剣が近づいてくる。
 僅かに指先が動き、掌中の飛蹄に触れた。
 黒い剣が彼の心臓から五十センチほどまで迫った。
 彼の指先に力が込められ、飛蹄が掌の皮膚を突き破った。特殊な経穴が貫かれ、李凱永の全身に鋭い痛みが走るとともに、金縛りの力が緩んだ。
 李凱永は身体を捻りながら、右手で黒い剣の側面を打った。剣の軌道が僅かに変化して、左上腕の布地を切り裂いて通過した。
 黒マントの男が、その勢いで体当たりをかけてきた。
 これは避けられない間合いだった。
 李凱永の身体が後方に跳ね飛んだ。彼は宙で身を捻りざま、左手でぽんと床を突くと、くるりと身を翻して着地した。
 舜意功が解け、時間の進行が通常に戻った。
 李凱永は、次の攻撃に備えて身構えた。飛蹄を握る右手からは、ぽたぽたと血が滴り落ちた。
 黒マントが剣を構え直した時、ようやく、人々が異変に気づいて、建物の中が騒然とし始めた。扉が開かれる音や、怒号、人々が走り来る足音が響いてくる。一階の入り口と奥の方からである。
 黒マントは剣を懐におさめ、僅かに身を沈めたかと思うと、ふわりと跳躍した。途中、二階の床端に左手をぐいと引っかけて、勢いをつけ、軽業師のような身軽さで二階の端に立つと、そのまま奥に消えて行った。
 李凱永も急いで追跡しようとしたが、金縛りが完全には解けていないため、思うように走れなかった。
 二階から、ぱんぱん!と銃声が響いた。
「きゃーっ!」という絹を裂くような悲鳴に、
「あっ!お嬢さんっ!」という男の叫びが続いた。
 李凱永が火薬の匂いが残る二階に駆け上がった時、ガラス窓の破られる音がした。
 廊下に男が倒れている。曹大人の護衛の一人だ。銃を握ったまま、腹に黒い短剣を突き刺されて呻いていた。
 玲凰の部屋の扉が開いており、中から、
「くそっ!撃つな!お嬢さんに当たるっ!」という声がした。
 李凱永が駆け込むと、銃を構えた二人の護衛が破れた窓際に張り付き、茫然としていた。彼は、そのまま二人を飛び越え、二、三秒の自由落下後、前庭に着地した。金縛りの影響は、もはや残っていない。
 ナトリウム灯の下、正門に向かう黒い影が見えた。玲凰らしい娘を背負ったまま、人間とは思えない速さで走っている。
 李凱永も全力疾走で追いかけた。
 黒い影が正門横の塀をふわりと飛び越えた。ギリシャ語らしき喚き声と慌ただしく車のエンジン音が響き渡った。
 李凱永が塀を飛び越えた時、幌つきの小型トラックがタイヤを鳴らしながら猛然と発進していった。ナンバープレートを読み取る間もなかった。トラックは見る見る小さくなり、左に曲がる坂の向うに消えた。
 彼は呆然と立ち尽くして、トラックの消えた辺りを見つめていた。

 しばらくしてから屋敷に戻ると、正面玄関の前で曹大人が立っていた。目は赤く充血し、こめかみには憤怒で青い筋が浮き上がっていた。
「ふん、おまえには失望した。手負いにさせておきながら逃がすとはな。厳義ならば、一撃で殺していよう。…もし、玲凰の身に何かあれば」
 その時、後ろから召し使いの一人がおずおずと声をかけた。
「あのう。…旦那様。広間にこんなものが落ちていたよ」
 護衛が受け取って老人に手渡した。
 どうやら薄っぺらな財布のようである。中には、くしゃくしゃな紙幣が二枚と小銭、それから紙切れが四枚ほど入っていた。レシートらしきものが三枚と色刷りの紙が一枚である。
「これは誰のだ?」
 召し使いが紙切れに目を凝らしながら言った。
「夜十時に見回った時には、こんなものなかったよ。それに、皆、屋敷内に住んでいるから、誰も、電気料金の領収書なんて持っているはずないね」
「電気料金だと?」
「ほら、ここに名前が書いてあるね。M・アルギィドゥスって。こんな名前うちにはいないよ」
「管轄の営業所がエレウシス市ですから、ここからそう遠くはありませんぜ」と、護衛が口を挟んだ。(註一D)
「よし。では、名簿屋を叩き起こして、アルギィドゥスとかの居所を突き止めさせよう。おまえたちは、すぐさま、エレウシスに向かえ。場所がわかり次第、連絡する」
「へい」
「おらも行くだあよ」と、李凱永が言ったが、曹老人は何も答えず、建物の中に入ってしまった。
 玲凰と空港に迎えに来たのっぽが、李凱永の肩をぽんと叩き、むっつりした表情で、ついて来るように合図した。その一分後には、一台のリムジンが、李凱永と四人の屈強な男たちを乗せ、タイヤを鳴らしながら発進していた。

 リムジンは、坂道を下ると、まばらに家が点在する田舎道を突っ切り、あっと言う間に雑然とした市街地に入った。
 車の速度が落ちた。ここがエレウシス市らしい。
 深夜なので、人気は皆無である。車の通行もない。町角のコンビニエンスストアだけがいやに明るく浮き上がっている。野良犬が何匹かゴミ箱を漁っているのが見えた。
 リムジンがゆっくりと流していると、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
 助手席の男が何度か頷いてから電話を切ると、運転手に向かって、
「テーベ街道沿いのキタイロン山系の辺りだ」と告げ、カーナビを操作して正確な場所を示した。
 たちまち、リムジンはタイヤを鳴らしながら転回し、エンジンが唸りを上げた。速度は百キロを越え、瞬く間に、幹線道路に入った。それから、さらに速度を上げたので、一、二分ほどで町並みが過ぎ去り、人家が疎らになった。
 やがて、山の端にさしかかったらしく、緩やかな上り坂になった。そこで、車は速度を落とし、脇の細い道に乗り入れた。凹凸の激しい道なので、車は大きく揺れながら走り、底を何度も地面に擦ったものである。そのうちに、速度が急に落ち、エンジンが止まった。ヘッドライトも消え、墨を流したような暗闇となった。
 男たちは短銃を構えながら車を降り、音を立てぬようにドアを閉めた。李凱永も、飛蹄を握り締めながら続いた。

 満月が雲間から顔を出して、辺りを淡い光で浮かび上がらせた。
 この道の百メートルほど先は行き止まりになっており、そこに一軒の古びた家が立っていた。小さな谷のような地形の中、周囲を糸杉の林に囲まれ、その背後には岩肌を露出させた崖が迫っていた。灯かりは点いていない。
 李凱永たちは、その家に向かって、足音を忍ばせながら近づいていった。
 彼らは、錆びついた鉄柵を乗り越え、農家風の庭に入った。
 李凱永は、周囲を用心深く見回していたが、納屋の影に小さな幌付きのトラックを見つけると、心の中でほっと胸をなで下ろした。曹家の襲撃に使われたものと同じ車のようである。だとしたら、時間の経過から考て、連れ去られた玲凰がここにいる可能性が非常に高い。
 敷地内には、正面の母屋の左右に納屋と物置小屋があるだけである。母屋の気配を探ると、人の気配はなく、不気味に静まり返っていた。窓からは灯かり一つ漏れず、夜の闇よりも濃い暗さを内部に充満させている。
 李凱永は、さっき戦った化け物の人間離れした動きを思い返した。このまま皆で暗闇の中に突入しても、同士討ちをするか、あの化け物に返り討ちにされるような気がした。彼は、男たちに向かって低い声で言った。
「まんず、おらが中にへえってみるだ。何かあったら、表と裏から討ち入ってくれろ」
「よかろう」と、彼の腕前を知るのっぽが答えた。
 李凱永は頷くと、猿のように母屋に向かい、軽く跳躍した。屋根の端に手をかけると同時に、壁をとんと蹴って、そのまま屋根に乗った。そして、屋根の角を音もなく伝い、二階の窓に忍び寄った。
 男たちは二手に分かれ、正面玄関と裏口に張りついた。
 李凱永は、屋内の気配を慎重に窺いながら、窓に手をかけて、そっと力を入れた。窓は意外にも滑らかに動いた。彼は、室内に身を滑り込ませると、窓を閉め、再び闇の気配に神経を研ぎ澄ました。
 室内の空気は重く停滞していた。外よりも濃い闇に次第に目が慣れてきて、家具や間取りが見て取れるようになった。階下からは物音が全く聞こえなかった。殺気が感じられないためか、心も不思議と落ち着いている。
 彼は、足音を忍ばせながら、部屋の扉に近づき、取っ手に手をかけた。
 その時である。夜のしじまを破って、
「ぎゃっ!」という悲鳴が聞こえ、ぱんぱんぱんと立て続けに銃声が響いた。
 李凱永は、
「ちっ!」と舌打ちすると、窓から屋根の上に飛び出した。
 びゅっと風切り音。
 李凱永が反射的に身を屈めると、頭上を何かが掠め去り、背後で窓ガラスが粉々に砕けた。石飛礫のようなものらしい。彼は地上に鋭い視線を配りながら、低い姿勢で屋根を走り、ぱっと飛び降りた。
 再び風を切る音。
 李凱永はくるりと身を捻って、紙一重でかわし、地上に着地すると同時に、両の手から飛蹄を敵の影に放った。敵が獣のような早さで納屋の裏に走り込んだ。手応えはあったが、余り効いていないらしい。
 曹大人の護衛たちは、残らず打ち倒されてしまったようだ。母屋の壁際に、二人の男たちが折り重なって倒れている。裏口に回った男たちも同様な目に遭っているのか、何の気配もなかった。
 李凱永は、敵を追いかけ、納屋の裏手に回った。
 予期していた石飛礫の攻撃はなく、代りに、月の光を浴びた大男が静かに立って待ち構えていた。背格好と殺気の感じからすると、玲凰を連れ去った化け物であろう。それに、折れた右腕を布で首に吊っていた。
 頭髪はなく、どこか爬虫類を思わせる顔が、李凱永をじっと睨んでいる。顔の造りがのっぺりしていて、両目の間隔が開いているのだ。身体は仁王立ちした羆のように大きい。
 のっぺら顔が、にっと笑った。噴き上がる殺気で巨体が何倍にも大きく見えたかと思うと、それが信じられないほどの素早さで突進してきた。
 李凱永も疾風と化した。
 化け物の吊られた右手から石飛礫が飛び出し、李凱永を突き抜けた。同時に、化け物の黒い剣が薙ぎ払った。
 李凱永の身体がふっと消えたようになり、どすっ!という重い音が響いた。
 二人の動きが止まった。
 李凱永は、化け物のみぞおち深くに突き込んだ右腕を引き抜くと、ふわりと飛び退いた。口から泡を吹きながら、茫然とした表情の大男が、ゆっくりと大地に崩れ落ちた。そのまま手足が痙攣し始め、やがて、それも止まった。
 口から溢れた血だけが血だまりをなし、静かに広がっていく。胸の上下がなく、呼吸は完全に止まっていた。
 …今度は、どうやら殺してしまったらしい。
 李凱永は、どうしたらよいか判らずに茫然と立ち尽くした。

 背後から幽かな草擦れの音がした。振り返ると、裏手の林に人影のようなものが隠れたように見えた。
 李凱永は、それが人影だったか確信が持てないながらも、直ちに追いかけた。化け物が死んだ以上、玲凰の居所を突き止める手掛かりは、その幻のようなものの他になかったからである。
 李凱永は疾風のように糸杉林に飛び込み、僅かに下草が踏み固められているだけの獣道を駆け抜けた。その先の荒れた岩斜面の上に、今度は間違いなく人の影が消えるのが見えた。彼は、岩斜面を一気に駆け登った。
 そこに小さな洞窟が不気味な口を開けていた。奥の方が明るいので、火か何かを焚いているのだろう。
 李凱永は、両手の中に飛蹄を隠しながら、用心深く中に入って行った。

 狭い入り口を過ぎると、奥行きのある広い空間に出た。凸凹してはいるが、幅七から十メートル、奥行き四、五十メートルくらいはあろうか。左右に、多頭の蛇やライオンなどを模した怪物の石像がずらりと並び、一番奥には鎖で岩に縛りつけられた神像が祭られていた。神像の前には、左右に大きな炎を上げている炉と棺のような形の祭壇が設けられ、祭壇の上には猿轡を噛まされた娘が寝間着姿のまま縛り付けられていた。
 玲凰である。その目が大きく見開き、希望の光を宿した。
 李凱永が駆け寄ろうとした時、祭壇の横から小さな影が滲み出し、黒い衣を纏った祭司の姿となった。顔は頭巾の影に隠れていて見えない。右手に黒い剣を持ち、それをすうっと娘の胸に当てた。
「それ以上、近づくな…」となまりの強い英語が響いた。
「その娘を返すだ」
 祭司は、ふんと鼻を鳴らし、炉の中に赤いものを放り込んだ。甘ったるい香りが洞内に広がった。
「もはや時がない。この娘には怨みはないが、人の世の破滅を避けるため…と言ったとて、信用すまいな」
「やっぱり、狂信者だか」
「真実が見えぬ愚か者めが。おまえは、こやつらが相手をしてくれよう」
 祭司は大きな声で何かを叫び、両手を激しく打った。まるで地震がきたかのように、洞窟そのものが震えたように感じられた。
 次の瞬間、李凱永は信じ難い光景を目の当たりにした。
 壁際に並んでいた怪物たちの石像が、俄かに色を帯びたかと思うと、のそりと動き出したのである。右からは無数の頭を持つ巨大な蛇がぬーっと鎌首をもたげ、かっと大きな口を開き、しゃーっと生臭い息を吐いた。左からは、三つ首の犬が敵意に満ちた唸り声を発している。犬の尾は蛇のそれであり、首の回りに小さな蛇の群れが生えていた。それらが今にも襲い掛かろうと牙を剥いているのである。
 李凱永は思わず二、三歩飛び下がった。
 けれども、怪物たちは、それ以上、追っては来なかった。祭司を守るように通路を塞ぎ、耳を聾するばかりの咆哮を放っている。首を不気味に揺らめかしたり、鋭い爪で岩肌をがりがりっと掻いたりしている。それにしても、積極的な攻撃の気配が全く感じられないので、彼を近づかせないための威嚇が、怪物たちの目的らしかった。
 祭壇の方に目をやると、祭司は神像の口から例の『夢見る聖石』とやらを取り出し、黒い剣の束に装着した。そして、玲凰に向かって、
「古き神々の争闘を大地の夢に封じておくための生け贄じゃ。光栄と思うがよい」と告げると、ぞっとするような音律の呪文を唱えながら、剣を振りかぶった。
 玲凰がすがるような目をして、こちらを見た。
 李凱永は、かっと目を見開くと、次の瞬間、疾風と化して、怪物の群れに突っ込んだ。舜意功に入ったので、全ての色と音が消え、時間の流れが緩やかになった。彼は、飛蹄を三頭の犬に投げつけながら、多頭蛇の攻撃を紙一重で摺り抜け、その先にいる人面ライオンの顔に右肘を突き入れ、左手で祭司に向かって飛蹄を放った。
 人面ライオンの首が石くれとなって砕け散った。
 飛蹄が祭司の顔に吸い込まれて行き、それをのけぞらせた。
 舜意功が解けた。
 目の前の怪物たちが消え、壁際に並んでいる石像に戻った。その中の人面ライオンのみが首なしである。砕けた欠片が辺りに散らばっていた。
 李凱永は、右肘の痛みをものともせず、祭壇を軽々と飛び越え、顔を押さえて蹲っている祭司の横に立った。
「…馬鹿者めが。取り返しのつかないことになるぞ」と、祭司が唸りながら、黒い剣を突き上げてきた。
 李凱永は、ゆらりとかわしざま、祭司の側頭を軽く打った。祭司は勢い余って、石の神像に顔面から突っ込んだ。肉と骨が潰れる鈍い音がした。剣は石像の胸に深々と突き刺さり、祭司は血を吐きながら地面に崩れ落ちた。
 李凱永は殺すつもりまではなかったので、呆然として死体を見下ろしていた。

 異変が起こったのは、その時であった。
 黒い剣の束に嵌まっている宝石から、百雷を集めたような閃光と大轟音が起こり、紫電が李凱永を撃ったのである。
 全身に激痛が走り、目の前が真っ暗になった。そして、奈落の底に落下していくような感覚が訪れた。


----------------以下、作者註--------------------
本編の中に説明を入れると、不自然な表現になるので、ここにまとめてみました。

註一A:李厳義
「刹神拳」という極めて知る人の少ない古武術の継承者。この武術は、後漢の時代を起源とし、数々の王朝や裏社会の暗殺者として、ひっそりと継承されてきたものであった。
李厳義も、そのような環境の中で育ち、裏社会の中で死神とまで恐れられるようになったが、曹大人の力により完全に足を洗うことができ、その時の退き金を元手に、今は台湾の片田舎で七人の孫に囲まれた穏やかな隠居生活を送っている。ちなみに、この退き金のおかげで、李凱永は約一年間の米国武者修業をすることができたのであったが、それはまた別の話である。
武術としての刹神拳の特長は、六龍砲という強猛な打撃術と八神破という神速の身法、そして常人の動きが止まってみえる舜意功にあり、これらを習得すると鬼神をも凌駕すると言われている。

註一B:曹基雄
かつての大陸の裏社会の大物であった。表向きは護衛業の元締めをしていたが、裏では殺し、人身売買、麻薬と何でも手がけていたらしい。革命以後は、ギリシャに逃れてきて、正業を営んでいるということなのだが…。

註一C:邪教
本編で登場する教団は、古代の秘教を受け継ぐ者たちの生き残りらしい。自らをプロメテウスの末裔と称し、ギリシャ各地に点在している秘密の神殿で、人の世を破滅から守るためと信じ、不運な旅行者を捕らえては人身御供を続けている。その強迫観念の中核は、大地の夢の中に、古代の神々の怨念と争闘が『夢見る聖石』によって封印されており、その封印の効力を保つために、犠牲者の生命力を捧げねばならないというものであった。

註一D:エレウシス
アテネの北西海岸に位置する小都市であり、古代においてはデメテル女神崇拝の秘教の中心地であった。一説によれば、かつて冥界への入り口があるとされたが、これはデメテルと冥界の女王ペルセポネとの親子関係からくるものかも知れない。