「銀の矢」
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二．狩りをする者
のどかな昼下がりであった。
ここは、松と糸杉の生い茂る谷の奥である。この辺りは、切り立った断崖によって背後と左右を守られ、正面は密生した森によって外界から遮断されているために、人が滅多に足を踏み入れることができない聖域となっていた。
今、暖かい陽の光を浴びて、大地を覆っている色とりどりの草花が甘い香りを漂わせ、美しい蝶や蜜蜂たちを誘っていた。その花畑を流れる一筋の沢を辿ると、谷の最奥にある半洞窟に至り、その中に清冽な水がこんこんと湧き出ている泉があった。
水辺は緑色の柔らかな苔が絨毯のように密生していおり、その回りを白く美しい岩が囲んでいた。
爽やかな風が谷間を吹き抜けて行った。
やがて、木々の中から十人ほどの美しい女たちが現われ、風に乗るようにして花畑を駆け上がってきた。皆、膝のあたりまでしかない短い衣を纏い、手には弓を、腰には矢筒を下げていた。足には革のサンダルをはいている者、裸足のままの者もいる。奇妙なのは、その者たちの輪郭が虹のように淡く感じられ、時折、身体が透けるように見えることであった。身のこなしも人間とは思えぬほど軽やかであった。
女たちは洞窟の泉に到ると、身につけていた弓矢や衣類をすらりと脱ぎ捨て、思い思いに水浴を始めた。
ある者たちは手で水をすくい、宙にそっと振りまいて、きらきらと耀く虹を描き出して遊んでいた。また、ある者たちは、竪琴を奏でるような美しい声で、静寂に染み入るような不思議な歌を口ずみ、別の者たちは、風が囁くような声でとりとめのない話をしながら、笑いさざめき合っていた。
それらの一番奥には、彼女たちを率いているらしい銀髪の美しい娘が泉の際に腰を下ろし、仲間の水遊びを楽しそうに眺めていた。その均斉のとれた裸身は、不思議な透明感を備え、その髪の毛と同様に、淡い銀の耀きを纏っているようであった。
その周囲には、取り巻きの女たちがいて、銀髪の娘の長い髪をすいたり、瓶で水をすくっては女主人の上に丁寧にかけたりしていた。
その前で、取り巻きの一人が、歌うように語りかけていた。
「…ああ、お可哀相なテティス様。下賎な人間の男に捉えられ、水、火、猪、狼と姿を変えたにもかかわらず、逃れられずに、とうとう元のお姿に戻ってしまわれたのですわ。その時、海の娘たちは悲嘆にくれ、このように叫んだとのことにございます。『ああ、私たちにアルテミス様のお力があらば、テティス様をお救い申し上げられたのに』…と」（註二Ａ、Ｂ、Ｃ）
銀髪の娘は、薄灰色の目を丸く見開いた。
「それから、テティスはどうしたのです？」
「おいたわしくも、今や、はかなき定めを受忍され、その男、プティアのペレウスと添い遂げられるお覚悟とか…」（註二D）
「ペレウスと言えば、当代一の戦士として鳴り響いている、あのペレウスですか？」
「…御意」
ふと、銀髪の娘は怪訝な表情になって、中空の一点を見つめた。灰色の瞳が鋭い輝きを帯び、銀の髪がざわざわと波打った。
その辺りの空間が陽炎のように揺らめいているのである。次の瞬間、その揺らめきは黒い染みとなって急速に広がり、中空に凶々しく渦巻く穴を開けた。その中は真っ暗で何も見えない。
「弓を！」と叫びながら、娘が立ち上った時、穴から黒いものが落ちてきた。
それが泉の水面を撃ち、大きな水音が洞窟に響き渡った。水しぶきが飛散し、女たちに降りかかった。
何が起こったのか、誰にも判らなかった。
渦巻く穴が揺らめきながら消え失せた。すると、水の中から異様な風体の男が立ち上がり、茫然とした様子で周囲を見回した。顔立ちは遥か東方の民のものを思わせたが、見たこともない珍妙な衣服を身に纏い、短めの黒い髪からぽたぽたと水を滴らせていた。
男の大きな黒い目が銀髪の娘を捉えた。
「きゃあああああっ！」という誰かの悲鳴が奇妙な静寂を破った。
銀髪の娘は、はっと我に帰ると、白い胸を腕の中に隠し、羞恥と怒りに震えながら、男を睨みつけた。
「慮外者っ！ 」
従者が銀の弓と矢を彼女に手渡した。けれども、娘が矢をつがえるよりも早く、男は脱兎の如く駆け出し、瞬く間に森の中に消えてしまっていた。
「追え、逃がすでないっ！」
そう叫ぶと、銀髪の娘と従者たちは魔法のようにふわりと衣服を身に纏い、それぞれの弓に矢をつがえながら、風が吹き抜けるような速さで、逃げて行った男の後を追いかけ始めた。
李凱永は、鬱蒼たる木々に囲まれた草地まで来ると、ようやく足を止めた。日頃、滅多に動じない彼でさえ、今は、思考が極度に混乱していて、何が現実なのかさえも判らなかった。
「はああ、ぶったまげただ…」と呟いてから、彼は深呼吸を何度か繰り返し、心臓の鼓動が落ち着いてくるのを待って、右の頬を思い切りつねってみた。
頬の肉が千切れそうなほど痛かった。
「夢じゃねえってことだか？」
今夜、玲凰を助けるために邪教の洞窟に入り、祭司を倒した時点までは、現実のはずであった。それが、何故、次の瞬間には裸で水浴している女たちの中にいたのだろう？しかも、ついさっきまでは真夜中であったものが、今は白昼である。
とすると、これは痛みを感じる夢なのであろうか？夢にしては、風景の細々した点やひんやりした風を感じる皮膚感覚がやけにリアルである。
それに、ここは一体どこなのだろう？
辺りの風景の緑の濃さと木々の高さは、飛行機の上から見たギリシャの荒涼たる土地のものとは思えなかったし、曹大人の屋敷から見た風景とも相容れなかった。全く別の土地なのであろうか？まさか、よくある安物の小説のように、異次元とやらの世界に迷い込んでしまったのであろうか？
「…そったらこたあ、ねえだよなあ」
李凱永は澄み切った青空を見上げた。鷹か鳶のようなものが高空でゆっくりと輪を描いている。飛行機あるいは飛行機雲は見えなかった。…そう言えば、さきほどから聞こえてくるのは、木々の梢を揺らせている風の音、草叢で鳴いている虫の声、それから小鳥の囀りくらいのものである。町や道路がさほど遠くない所にあるはずなのに、自動車などから発せられる低い雑音というものが全く聞こえてこない。
彼は、ぽりぽりと頭を掻いた。
不意に、木々がざわめき、辺りの空気がぴんと張り詰めた。李凱永は、本能的に身を屈め、近くの木の影に素早く隠れると、気配のした方向に目を凝らした。
密生した木々の間から、何人もの女たちが駆けてくるのが垣間見えた。方向からすると水浴していた者たちであろう。皆、羽衣のような薄衣を優雅に風になびかせながら、飛ぶように走ってくる。物騒なことに、それぞれの手には、弓が握られていた。
その優雅な外見とは裏腹に、刺すような鋭い殺気が放射されている。
李凱永は殺気が自分に向けられていることを察知し、咄嗟に、逃げるかどうか思い迷った。だが、この理解し難い状況を速やかに把握するには、彼女たちに尋ねるのが一番の近道であった。そのためには一戦交えなければならないかも知れないが、まあいいかと軽い気持ちで思った。
李凱永は腹をくくると、身を低くしたまま木々の密生している所まで移動し、小石を拾ってから、樫の大木の枝にふわりと飛び上がり、その気配を完全に絶った。
弓矢を構えた女たちは、草地までやってくると、足を止めた。
よく見ると、皆、天女とか妖精という形容がふさわしいほどの美女であった。その中でも、頭目らしい女性が特に際立っており、まるで神話の中の女神のように眩しく見えた。髪は輝くばかりの銀色、それがさらさらと腰まで流れている。肌は雪のように白く、すらりとした優美な肢体は大理石の彫刻のようであった。そして、気品と誇り高さを備えた美しい顔は、鋭い殺気を帯びた目で周囲を見回していた。
李凱永は、思わず感嘆の溜め息を漏らしかけたが、すぐに険しい顔つきに戻った。
女たちの様子が尋常でないことに、気づいたからである。最初は錯覚かと思ったが、彼女たちの身体には僅かに透明感があり、輪郭も不思議と薄いのである。身のこなしも人間にしては軽やか過ぎて、妙につかみ所がなかった。それ故に、彼女たちの戦闘能力がどれくらいなのか、彼の感覚として全く計れなかったのである。
一体、彼女たちは何者なのであろう？
女狩人たちは、歌うような声で互いに言葉を交わしてから、地面を指差し、ゆっくりと李凱永の隠れている樫の木の方に近づいてきた。足跡を見つけたのであろう。このままでは、たとえ巧妙に気配を殺していたとしても、見つかるのは時間の問題に違いない。
李凱永は、頭の中で目まぐるしく思考を回転させ、二つ三つの戦術を練り上げると、静かに深呼吸した。そして、女たちをじっと見据えながら、掌中の小石を女たちとは反対方向に向け指先で軽く弾いた。
小石は枝葉の隙間を貫き、二、三十メートル先の草叢に落下して、幽かな葉擦れの音を起こした。
弓弦が立て続けに唸り、幾筋もの矢が草叢を貫いた。女たちが次の矢をつがえながら駆け寄ってくる。
李凱永は、彼女たちが木の下を通り過ぎた瞬間、ふわりと飛び降りた。
何人かが、ぎょっと振り返る。男の身体がぺたんと地に伏せ、風車と化した。旋風と砂塵が巻き起こり、三人の女が悲鳴を上げながら吹き飛ばされるように倒れる。別の者たちが、慌てて弓弦を弾いた。
李凱永は、地面から跳ね起きながら、舜意功に入った。
音と色がなくなると同時に、時間の経過が緩く感じられ、四本の矢が人の走るくらいの速度で向かってきた。彼は、そのうちの三本を身体を捻って躱し、残りの一本を右手で弾いた。そして、そのまま矢を射終わった女に跳び、彼女の弓を叩き落としざま、体当たりをかけた。女の軽い身体がふわりと吹き飛んで、今まさに矢を射ようとしている二人の女に打ち当たり、重なり合って倒れた。
残りの女たちは、瞬時に六人も倒されたので、信じられないという表情をしていた。そもそも、李凱永から仕掛けるとは思ってもいなかったらしい。
李凱永は、飛燕のように身を返すと、立て続けに四つの飛蹄を放ってから、銀髪の女頭目に向かった。飛蹄は、三人の女たちの手首や腕に突き刺さり、その弓を落とした。しかし、銀髪の女は、銀の弓を構えたまま、間近に迫った李凱永を平然と見つめていた。彼女に投げたはずの飛蹄の手応えは全くない。
次の瞬間、銀髪の女から炎のような殺気が噴き上がるとともに、李凱永の左胸に凍気が走った。彼は、初めて心底からの恐怖を覚え、横に飛びざまに、身体を捻った。
銀の弓から一条の光が迸ったように見えた。その光は、李凱永の左胸の衣服を切り裂き、背後の木を貫通した。舜意功に入っているにも関わらず、矢は見えない。
李凱永は、彼女が次の矢をつがえようとする所に飛び込み、腹部に掌を打ち込みざま、体当たりをかけた。
手応えは空虚だった。銀髪の女が蜃気楼のように、すっと消えてしまったのである。
李凱永は、心の動揺を抑えつけながら、背後を振り返った。
銀髪の女が、二十歩ほど離れた所に立ち、悠然と次の矢をつがえようとしていた。倒されていた他の女たちも、立ち上がり、矢の狙いを李凱永に付けようとしている。
李凱永は、かっと目を見開き、最後の奥の手を発動させた。すなわち、千人をも一瞬にして撃破するという刹神拳の秘奥義「八神破」である。（註２Ｅ）
次の瞬間、李凱永の姿が掻き消え、目にも止まらぬ流線が走った。
従者たちの弓弦が続けざまに鋭い音を発した。流線は稲妻のように方向を変え、矢の雨を振り切って、まっしぐらに銀髪の女に突っ込んだ。
女の弓から銀の光芒が閃き流線を貫いたが、流線はそのまま彼女に激突した。一瞬の旋風が巻き起こった。
辺りに静寂が訪れた。
李凱永は、そこに木偶のようになって立っていた。既に、舜意功と八神破の効果は消え、それらの反動である猛烈な酸欠と疲労のために一歩も動けない状態になっていた。
彼は、いつの間にか手にしていた短刀をぽとりと地面に落とし、肩で荒く息をつきながら、生気の失せた声で呟いた。
「…やっぱ…甘かった…だか…なあ」
銀髪の女が、少し離れた所で、弓を構えているのが見えた。殺気が膨れ上がり、弓が引き絞られた。弓弦の弾ける音がした。
李凱永は敗北を確信しながら、重い疲労に押し潰されるようにして意識を失った。
午後のやさしい風が木々の間を流れて行った。
銀髪の女は、僅かに上気している顔に驚きの色を浮かべ、左手の弓を見つめた。絶対に切れないはずの弓弦は中頃でぷつんと切れ、だらりと垂れ下がっていた。矢を射ようとした瞬間に切れてしまったのである。弦の端を手に取って目を凝らすと、半分切断されたような跡があった。
はっとして腰帯に目を向けると、差していたはずの短刀がなかった。
彼女は、理解し難いという表情をして、倒れている男を見つめた。どうやら、あの一瞬の間に、彼は腰から短刀を抜き取り、弦を切るという離れ業を演じたらしい。
…何故？と、彼女は自問した。必中必殺の矢を二度も躱し、一瞬で力を使い果たすほどの乾坤一擲の攻撃を仕掛け、短刀まで奪いながら、何故、あの男は弓弦しか切らなかったのだろう。己の命が懸かっているのに、何故、彼女を倒そうとはしなかったのだろう？もしかしたら、傷を負わせるくらいはできたかも知れないのに…。
そもそも、あの異様な出現の仕方といい、一体、何者なのだろう？
「…アルテミス様」と呼ぶ声がしたので、銀髪の女は我に返ると、左右に集まってきた従者たちに視線を向けた。彼女たちは、弓を構え、倒れている男に狙いを定めながら、女主人に問い掛けた。
「今のうちに、とどめを刺しておいた方がよろしいのでは？」
銀の髪がさらりと横に揺れた。
「なりませぬ。…どうやら、私はこの男に借りがあるようですから」
「…？」
「それに調べたいことがあります。その辺りの木にでも縛り付けておきなさい」
「はい」と、答えが返り、従者たちはおずおずと男に近寄って行った。
銀髪のアルテミス女神は、切れた弓弦を魔法のようにつなぎ合せてから、再び深い物思いに沈んだ。（註２Ｂ）
李凱永は夢を見ていた。
昨日から今日にかけての追体験の夢である。アテネ空港に到着した時に始まり、曹大人の手荒な出迎え、『夢見る石』、あの化け物の襲来、追跡、農家での戦い、洞窟の儀式が次から次ぎへと浮かんでは消えていき、最後に奇怪な雷電に打たれ、目の前が真っ暗になると、唐突に夢は終わった。
気がつくと、李凱永は樫の木に縛り付けられており、目の前には、銀髪の女が佇んで、彼の頭に掌をかざしていた。
李凱永が顔を上げると、目が合った。思わずその奥に引き込まれそうなほど、深く美しい瞳である。殺気は既にない。
彼女はすっと掌を離し、従者を振り返った。
「用は済みました。この者の縛を解いておやりなさい」
「えっ？」と、女たちが信じられないように顔を見合わせた。「…け、けれども、アルテミス様」
「解きなさい」
銀髪の女が再び言うと、女の一人が短刀を抜きながら恐る恐る進み出て、李凱永を縛っている木蔦を切断した。
李凱永は、立ち上るのも忘れ、驚きに丸くなった目で、アルテミスと呼ばれた女を見つめた。縛を解かれたからではない。まるで、彼女たちが英語を喋っているかのように、その会話を理解できたからである。英語でも中国語でもないのに…。
アルテミスは、再び李凱永に目を向けた。
「リ・カイヨン…いえ、当地風に呼べばリュカイオンでしょうか。そなたには、借りがあるようですから」
「え…おらの名前…って」と、李凱永の口をついて出てきた言葉は、中国語でも英語でもなかった。彼の思考はぐるぐると渦を巻いた。一体、自分は何語を喋っているのだろう？何故、目の前の女が己の名前を知っているのだろう？
銀髪の女は、感情のない声で続けた。
「さあ、そなたは自由です。どこへなりと、お行きなさい」
「だ、だども、どこかへ行けって言われたって、そもそも、ここがどこだか判らねえですだよ。おら、元のとこさ、帰りてえのだけどもなあ？」
「控えよっ」と従者が血相を変えて遮った。「我らがアルテミス様に対し、そのぞんざいな物言い、非礼の数々、もはや許しておけぬ…」
「待ちなさい」と、アルテミスが従者を抑え、李凱永の目を見据えた。「リュカイオンよ、この土地のことを知りたくば、この石にでも問うがよい」
銀髪の女は、右手をすうっと伸ばした。すると、地面から一粒の石がふわりと浮かび上がり、彼女の掌におさまった。かと思うと、それを宙に放り投げた。
石は途中で白い鳩に変じ、そのまま空高く舞い上がった。
李凱永は、はっと我に返った。気がつくと、銀髪の女が忽然と消え失せていた。従者たちの姿もない。
木々の間から、
「己の辿るべき道をどこまでも追いかけてゆくがよい」という木霊が響き渡った。森そのものが笑いさざめいているかのように、枝葉を風に波打たせた。
李凱永は、いつの間にか走っていた。森の梢に見え隠れする白い鳩を目で追いながら、草叢や潅木を踏み分け、小川を飛び越え、木々の間を駆け抜けていく。
何故かは判らないが、あの銀髪の女性が残した謎の言葉が気になっていた。あの鳩について行けば、何かが起こるかも知れないし、起こらないかも知れない。しかし、今の所、他に行く当てもなかった。
それにしても、アルテミスって言ったら…。と、李凱永は記憶の奥底を探りながら、思った。確か、小学校の頃に読んだギリシャ神話に出てきた神様の名前だったような…気がするだよ。そう言えば、着ているものも、古代ギリシャ風の一枚布を巻き付けた服だったような。まさか、神話の世界に迷い込んだ…なんてこたあねえだよなあ。だとしたら、やっぱり夢っちゅうことかなあ？…と。
こうして、鬱蒼とした森の中を、細い獣道伝いに二、三キロは走ったであろうか。
不意に、白い鳩が視界から消えたかと思うと、頭上の枝葉を突き抜けて、拳ほどの石が降ってきた。李凱永が足を止め、拾い上げて見ると、それはアルテミスという女性（女神なのだろうか？）が宙に放り投げた石のようであった。
李凱永は、額の汗を拭いながら、不思議そうな顔で周囲を見回した。
それは何の変哲もない森の光景であった。相変わらず木々は鬱蒼としているし、獣道の左右の地面は、密生した潅木と枯れ枝や下草で埋め尽くされていた。前方には開けた草地があり、その中央に小さな家ほどもある大きな岩がでんと鎮座していた。
李凱永は、ぽりぽりと頭を掻きながら、
「ここで待ってろ…っちゅうことだか？」と呟くと、大岩の上にふわりと跳び、石を置いて、そこに横になった。
腹の虫がぐうと鳴いた。
翌日の昼前である。
李凱永は、まだ岩の上にいた。昨夜は着の身、着のままで野宿したので、朝方には身体がすっかり冷えてしまい、風邪を引きそうになったものである。しかし、太陽が昇るにつれて、初夏のような陽気となり、ようやく身体の調子が戻ってきた。
昨日から食事はしていない。パセリやほうれん草のたぐいの雑草を草叢で探し出し、僅かに口に入れただけである。空腹であったが、まだ、辛いというほどでもなかった。刹神拳の使い手ならば、二、三日は飲まず食わずで戦闘能力を維持し続ける訓練を受けているからである。
さあて、いつまで、ここにいるだかなあ。…と、李凱永は、柔らかい草の茎をかじりながら、ぼんやりと考えた。
澄み切った青い空に、純白の羊雲が群れをなして、ゆっくりと流れていく。昨日から、こうして空を見上げていても、見えるのは雲や鳥だけで、飛行機は一機も見かけなかった。やはり、ここは別の世界なんだべか？もし、本当に別の世界だったら、不用意に人里に出ていったりしたら、また厄介な騒ぎを起こすだけだべなあ。
李凱永は、そこまで考えてから、苦笑した。自分が別世界に迷い込んでしまったという突拍子もない仮説を、受け入れ始めていることに気づいたからである。
突然、遠くの方から獣の吠え声が響き渡り、森の梢から小鳥たちが一斉に飛び立った。
李凱永は身を起こすと、耳をぴくりとさせ、声のした方向に目を凝らした。彼方の森が幽かに震えているように見えた。断続的な低い地鳴りが、次第に大きくなってくる。何か巨大なものが近づいてくる気配である。
雷鳴のような音とともに、五十メートルほど向うの丈高い糸杉が倒れていくのが見えた。
枯れ枝の折れる音、どどどど…という蹄の音が続いて、近くの草叢が波立った。
そこから栗鼠や兎などが飛び出してきて、慌ただしく散って行った。次に、狐や鹿が泡を吹きながら飛び出してきて、これらも素早く駆け去って行った。
地鳴りが近づき、今度はずっと近くで、どすんというもの凄い音がした。間違いなく、何かと何かが衝突する音である。ばきばきっと木が引き裂かれ、砕ける音が続いた。
潅木の間から、半弓を抱えた少年が鉄砲玉のように飛び出した。（註２Ｆ）
その直後、潅木がばらばらに粉砕され、飛び散った。その中から、サイのように巨大な猪が飛び出し、少年めがけて突進した。樫の木を背にした少年がぱっと横に避けると、猪は大音響とともに木に激突し、太い幹をへし折った。木の上半分がざざざざという音を立てて倒れていく。
少年が慌てて半弓で矢を放ったが、矢は猪の厚い毛皮に撥ね返されてしまった。
巨大猪が荒々しく唸りながら身を翻した。その全身の毛が逆立ち、目は炎のように激しく怒り狂っていた。
少年が猪に背を向けて駆け出した。それを猪が猛然と追いかける
李凱永は、それ以上は見ていられなくなり、拳ほどの石をひゅっと投げつけざま、ふわりと地上に舞い降りた。
石は猪の左目に命中した。猪は足を止め、李凱永に向き直った。その目から血が流れ出し、地面にぽたぽたと滴っている。
巨大猪が、今度は李凱永に向かって、突進し始めた。
猪の巨体が李凱永を跳ね飛ばした…と見えた瞬間、彼の身体がゆらりと流れ、右手で猪の左耳をぽんと突いた。
猪は、そのまま十メートルほど走ってから、呆けたように足を止めた。その両耳から夥しい血潮が噴き出し、巨体が地響きを上げて倒れ込んだ。四つの足が天を向いて痙攣し、それもやがて止まった。
「もう、でえじょぶだぞ」と声をかけながら、李凱永は少年を振り返った。
その少年は、信じられないものを見たかのように目をぱちくりし、半弓を構えかけたまま、口をぽかんと開けていた。歳は十二、三であろうか。透けるような金髪、碧玉のような青い目。幼さを残した邪気のない可愛い顔立ちをしていた。服は、やはり一枚布を身体に巻き、肩で吊るし、腰帯を巻いただけものである。
「…リュカイオン」と、我に返った少年が口を開いた。「お、おまえが、リュカイオン…殿？」
「おらを知っているだか？」
少年はこくりと頷いた。
「教えてもらったんだ…アルテミス様に。キタイロンの森に、とっても強いリュカイオンという人がいるって」
「アルテミス様に？…あの人を知っているだかね？」
少年は得意げな顔になった。
「人じゃないよ。神様だよ。オリュムポスの十二神の一柱さ。…ぼくだって、直接、お目にかかったのは、昨日が初めてなんだ。この山の麓のアルテミス様の社で、英雄になりたいって願をかけたら、目の前に現われてくださって、キタイロンにいるリュカイオンという強者を得れば、望みが叶えられるだろうって、おっしゃったんだよ。それで、ぼく、キタイロンの森に入ったんだけど、そしたら、猪の化け物と鉢合わせしちゃったんだ」
李凱永は、ぽりぽりと頭を掻いた。やっぱり、アルテミスという女性は神様だったようだ。それも、オリュムポス十二神というと、ギリシャ神話の世界だ。
少年は、李凱永の前にすたすたと歩み寄ると、右手を差し出した。
「ぼくは、パロス島の王子、イムリス。よろしく…リュカイオン殿」
「…ああ」と、李凱永は気のない返事を返し、握手もせずに、ちらと猪の死骸に目をやった。イムリスと名乗った少年は気にせずに続けた。
「それにしても、あの猪をどうやって倒したの？何か、こう、ぽんと軽く叩いただけのように見えたのだけれども」
「どうっちゅうこともねえだよ」
李凱永は上の空で答えてから、ぽつりと呟くように言った。
「…ところで、あの猪、食えるだかね？」と。
二時間ほど後、きれいに解体された猪が、焚き火にあぶられて、香ばしい煙を立ち昇らせていた。
解体したのはイムリス王子である。この世界では、獣の解体というのは誰もが心得ている技術らしく、少年は手慣れた手つきで短刀を扱い、一滴の血も流さずに毛皮を肉から剥ぎ取り、肉の塊を骨や他の肉からきれいに分離させていった。
今や、大きな敷物と化した毛皮は木の枝に吊るされ、干されていた。
その下では、串刺しにされた猪の大きな肉塊が、ぐるりと焚き火を囲み、おいしそうな肉汁をじゅうじゅうと滴らせていた。
李凱永は、まだ血の滴っている半焼きの肉にかぶりつき、舌鼓を打っていた。肉には猪特有の臭みがあり、筋が多くて固かったが、それよりも胃袋の満足感の方が大きかった。彼は、瞬く間に、四、五本と串を平らげると、さらに新しい串を手に取り、にこにこしながら少年の方を見やった。
「こらあ、えっらく、うんめえ肉だなあ」
「…す、すごい食べっぷりだね」と、少年は目を丸くしながら、食べかけていた一本目の串を置き、李凱永が置いた串に新たな肉を突き刺して、火にかけた。
「仕留めたからには、たんと食ってやらねえと可哀相だ」
「ふーーん」
「で、坊が英雄とやらになるためには、おらが必要だって。アルテミス様が、そうおっしゃっただか？」
「坊じゃない。これでも王子だ」と、少年は頬を膨らませた。「英雄になって帰還すれば、元服して、自分の領地をもらえるんだぞ」
「英雄になるって…どうすれば、なれるだかね？」
「そ、それは…」と少年は口ごもり、少し考えてから、顔を上げた。「い、いろいろな冒険をして、怪物を退治したり、宝物を探したりして、武勲を上げることだい」
「ふうん、まるで神話みてえだなあ」
「それなら、リュカイオンは、何故、こんな所にいるのさ？顔かたちからすると、随分、遠くの国の人で、その衣の目の細かさからすると、身分は卑しくないようだし。とすると、やっぱり英雄になるために、たった一人で諸国を旅しているのじゃないの？」
「そんなんじゃねえだよ」
「じゃあ何さ？」
「まあ、神隠しみてえなもんだべかなあ。つまり、知らねえ間に、こんな所に迷い込んじまったってことだ」
「じゃ、じゃあ、行く当てがないってことだね」
「…そういうことだなあ」
「だったら、ぼくと一緒に冒険をしようよ。手柄を上げたら、ぼくの領地を分けてあげてもいいよ」
「坊には、行く当てはあるだか？」
「まず、キタイロンを越えて、テーバイに行こうと思うんだ。テーバイなら大きな町だし、猪の毛皮も売れるだろう。それに、テイレシアスっていうすっごく有名な予言者もいるから、英雄になるにはどうしたらいいかって占ってもらうこともできるしさ」
「ふうん」と、李凱永は肉を一口食いちぎり、もぐもぐと顎を動かしていたが、やがて、それを呑み下し、
「ま、行って見るだか…」と呟いた。
--------------------------作者註--------------------------------
註二Ａ：海の娘
ネレイデス。海のニュンペ、つまり、妖精たちの総称。
註二Ｂ：アルテミス
オリュムポス十二神の一柱であり、月と狩猟の女神。全能の神ゼウスを父に、夜の女神レトを母に持つ。太陽神アポロンは双子の兄にあたる。
註二Ｃ：テティス
海神ポセイドンの重臣ネレウスの娘。
註二Ｄ：ペレウス
英雄アキレウスの父。ペレウス自身もカリュドンの猪狩りなどで知られる英雄である。
註二Ｅ：八神破
刹神拳の中でも最高難度の奥義。特殊な経穴を刺激した後、無音だが激しい気合を臍下丹田から継続的に発することによって、通常の身体能力の何倍もの速度と力を維持し続けるという身体技術である。しかし、余りにも過酷な技なので、動けるのはせいぜい十秒くらいまでの間だけであり、それ以上続けると、肉体を損傷したり、酸欠と疲労のために死に至ることもあると言われる。
北宋の時代に生きた刹神拳の中興の祖「李伊」によって考案され、その四代後の「李経福」によって完成されたとされる。
註二Ｆ：半弓
小振りの弓。
註二Ｆ：パロス島
エーゲ海の小島。