「銀の矢」

五、黒の封印

　十日後の朝、霧雨けぶるカルケドンの入江から、二艘の舟がボスフォラス海峡に漕ぎ出して行った。
　先頭の舟では老漁師トメオスと息子が帆と舵を操り、後の小さな舟を麻のロープで引っ張っていた。その小舟の中ほどには、簡単な祭壇が築かれ、その上に山盛りの供物が積まれていた。
　船尾には、白装束を纏った少女がぽつんと座っている。顔は俯けている上に、白いフードに隠されていて見えなかったが、背格好からすると十五、六歳ほどであろうか。身動き一つしないので、まるで人形が座っているかのようであった。
　二艘の舟は、緩やかな波に揺られながら海峡を北上し、二、三時間ほどが過ぎると、海峡から黒海の沖合いにまで到達していた。
　老父トメオスは、曳いてきた小舟に声をかけた。
「そいじゃあ、ぼちぼち、俺っちは、引き返すからよう」
　小舟の少女がこくと頷いた。
　息子のイノスは、ぺこりと頭を下げると、小舟を繋いでいた麻のロープを外して、海に放り込んだ。老父も深くお辞儀をし、舟の向きを陸に返した。
　トメオスの舟がすうっと離れていく。
　残された小舟は、しばらくの間、ゆったりと波に揺られていたが、やがて潮に乗ったのであろうか、速度を上げ、沖合いに向かって流れ始めた。

　いつの間にか、辺りには霧が立ち込め、視界が殆ど効かなくなった。風もぱたりと止んでいる。波も止まっている。
　こうした状態が何時間も続いた。
　空を見上げても、太陽の位置もはっきりせず、方向感覚も失われたので、現在の時刻の見当もつかなかった。
「…ふああああ」と、間延びしたあくびが聞こえた。
「腹が減っただなあ」
　祭壇の下からにゅっと手が伸び、林檎を掴むと引っ込んだ。しゃりしゃりと齧る音が続き、ほどなく、芯が海に投げ捨てられた。
「リュカイオンは、のんきだね」と、白いフードの下からイムリスの声がした。
「食い意地が張ってるだけだ」と、ペレウスの呆れた声がした。
「いまさら、あれこれ悩んでも仕方ねえべさ」と、のんびりした声が答えた。
「ふうん…怖くないの？」
「そりゃあ、怖いだあよ。化け物とやらの正体がわかってねえだからな」と、他人事のような答えが返った。「そうすっと、かなり危ねんでねえかなあ。海というのも勝手が違うしなあ」
「それでよく、化け物退治なんて引き受けたものだね」
「おらも、そう思うだ。けど、もう約束しちまったからなあ」
「本当は、放っておけなかったんでしょ？」
「…は、ははは」

　不意に、霧が左右に分かれ、小舟は開けた海面に流れ出た。頭上低く垂れ込めた雲を天井に、霧の壁がぐるりと四方を取り囲み、ゆったりと漂っていた。直径は一キロメートルほどであろうか？
「…何か、聞こえない？」と、イムリスが首を傾げた。「それに、何だか変だよ…この海」
　少年は白装束を脱ぎ捨てると、祭壇によじ登って、背伸びをし、海面の様子を窺っていたが、やがて引き攣った声で叫んだ。
「リュカイオン！…う、海が…海が抜け落ちているようっ！」
「何っ！」
　李凱永とペレウスが、祭壇の下から這い出し、イムリスの視線が固まっている方向に目を凝らした。
　霧に囲まれた空間の中心に向かって海が落ち窪んで見える。よく見ると、海が大きな渦を巻きながら、その一点に向かって傾きを増して行き、最後に恐ろしい勢いで落ち込んでいた。その中心には水煙が立ち、海そのものが沸騰しているかのようである。
　いつの間にか、重苦しい海鳴りが大気を震わせている。
　李凱永とペレウスは同時に我に返ると、櫂を取り、必死の形相で漕ぎ始めた。けれども、どんなに早く漕いでも、潮の流れはそれ以上に早さを増し、舟はゆっくりと旋回しながら渦の中心に近づいて行った。次第に、波が大きくうねり、流れも急になった。海面の傾きも増してくる。
　二人の漕ぐ舟は荒波に揉まれながら何回か旋回し、やがて渦の中心に吸い込まれ、一瞬のうちに沈んでしまった。
　大瀑布のような轟音が、いつまでも霧の中にこだましていた。

　混沌とした暗闇の中。
「…リュカイオン、リュカイオン！」と、甲高い声で誰かが叫びながら、身体を激しく揺さぶっている。
　李凱永は、混濁した意識から抜け出せないまま、ゆっくりと目を開いた。
　夕暮れのような薄明かりの中で、イムリスがひどく怯えた顔をしてこちらを見ていた。小さな目が二、三度瞬きして、それが僅かに安堵の色を浮かべた。
「よかった。このまま、目を覚まさないんじゃないかと思った」
　李凱永は、焦点の定まらない目で少年の顔を見上げた。
「お、おら…どうちまったんかなあ？」
「大きな渦に巻き込まれたんだよ」
「…大渦？…あ、ああ、じゃあ、おらたち、助かったんだべか？」
　李凱永は、そう言いながら身を起こし、怪訝そうに薄暗い風景を見回した。
　異様なことに、地面には無数の星が光り、瞬いていた。蛍あるいは光り苔のようなものなのであろうか、青白いまたは緑色の明滅する光が散らばっていた。それが、この空間に僅かな明るさをもたらしているようである。
　目が慣れてくると、星の地面には水溜まりが点々と広がっており、あちらこちらに海草にまみれた船の残骸が横たわっていた。時折、空から雨粒がばらばらっと落ちてきた。
　李凱永は、低く雲が垂れ込めているような空を見上げ、そこに視線を凍りつかせた。その雲が真上を中心にして大きな渦を巻いているように見えたからである。
　雲…ではない。霧がかかっているが、確かに海の水が渦巻いているようである。それが何の力によるものか、落ちてこずに、この奇妙な空間の天井を形成している。耳を済ませば、確かに、渦の轟音がそこから響いてきている。
　現実とは理解し難い光景であった。李凱永の頭の中は混乱し、真っ白な思考がぐるぐると回った。
「あいやあ、ここは…一体どこだかなあ？」
「海の底…だと思うけど」と、やや平静さを取り戻したイムリスが言った。「冥界だとしたら、まだ、ステュクス河を渡っていないしね」（註五Ａ）
「ペレウスは？」
「知らない…」
「ふうん」
　李凱永は、深呼吸を二度三度繰り返してから、ゆっくりと立ち上がった。
　まだ、海の底にいるとは信じられなかった。試しに頬をぎゅっとつねってみると、痛かった。それに、頭上の大渦は、いつ果てることなく回り続けている。その大渦の中心から海上のか細い光が漏れている。
　落ち着いて近くを見回してみると、小舟に積んできた野菜などの供物が散乱し、浅い潮だまりには、渦から落ちてきたものらしい魚が何尾か、ぴちぴちと跳ねていた。
　それを見ている李凱永の胃袋がぐうと鳴った。彼は、おもむろに、セロリのような野菜を拾い上げると臭いを慎重に嗅ぎ、それから砂をはたいて、生のままむしゃむしゃ食べ始めた。それを見たイムリスが、呆れたように、
「…よくそんなものを食べられるね」と言うと、李凱永は平然と答えたものである。
「腹が減っては、戦ができねえっちゅうだ。それに、塩加減がちょうどいいだあよ」

　いつの間にか、霧が深くなってきた。
　李凱永は、ふと妙な気配を感じ、霧の向うに目を凝らし、耳を澄ませた。
　遠くから幽かに水溜まりを踏む音がした。音が幾つも重なって聞こえるので、人の足音だとしたら、十人以上であろうか。それが、のろのろと近づいてくる。苦しそうな呻き声のようなものも聞こえてくる。
　イムリスが、血の気を失った顔を強張らせている。
「お化けでも出て来そうだなあ…」と、李凱永は軽口を叩いたつもりだったが、顔は笑っていなかった。彼は、近くに落ちていた櫂を拾い上げ、肩に担ぐと、音のする方向を睨みつけた。
　イムリスは、李凱永の背後に後退し、背負っていた半弓を左手に、矢筒を腰に装着した。
　霧の向うに、ゆらゆらと揺れる影の群れがにじみ出し、やがて奇怪な人々の集団が現われた。顔や腹が異様に膨らみ歪んでおり、ぼろぼろの衣を纏っている。髪の毛が半分以上抜け落ちた者や、目が半分飛び出している者もいた。生きている人間とは思えない姿である。動作もぎこちない。
　李凱永は、悪夢を見ているような気がした。三流映画によく出てくるゾンビそっくりである。彼は腹を括ると、櫂を振り上げ、ゆらゆらと近づいてくる死人の群れに突っ込んで行った。
　櫂が一旋し、二つ三つの死人の頭を吹き飛ばした。櫂は立て続けに二旋、三旋し、さらに五人ほどの手足を切り飛ばした。それらの死人たちは、他愛なくも、糸の切れた操り人形のように地面に倒れ込み、じたばたとぎこちない動作を続けた。化け物は化け物だが、映画のように、不死身というわけではないらしい。
「これなら…望みはあるべ」
　李凱永は、ふううっと一息ついてから、櫂を風車のように振り回しながら、死人たちの群れを縦横無尽に切り裂いた。
　二十人ほどのゾンビを倒したところで、
「リュカイオン！」と、イムリスの引き攣った叫び声が響き渡った。
　振り返ってみると、後ろからも数十人の死人の群れがゆっくりと近づいてくるところだった。そして、左右の霧の中にも、わらわらと湧き出してくる気配があった。どうやら、既に、四方を取り囲まれているらしい。
　半弓の弓弦が鳴り、少年の矢が先頭の死人の目に突き刺さった。その死人は、こたえた様子もなく歩き続けている。
　李凱永はイムリスの元に取って返した。
「このまんまじゃ、きりがねえだよ」
「じゃあ、どうするの？」
「逃げる」
「どこへ？」
「知らねえだっ！」
　李凱永は、死人の陣の手薄なところをめがけて、駆け出した。イムリスも慌てて追いかけた。
　櫂が暴風と化した。

　あれから一時間ほどが経過したろうか。
　李凱永とイムリスは、石柱のような岩が林立する奇怪な風景の中に迷い込んでいた。
「はあ、はあ、はあ…」と、肩で大きく息をしながら、李凱永は手頃な岩にぺたんと腰を下ろした。手には、折れて半分ほどの長さになった櫂が張りついていた。五本の指が硬直して、離れないのである。
　どうやら、死人の群れを引き離したらしく、追ってくる気配は感じられない。少なくとも、今のところは。
　イムリスは、生気の失せた顔をして、地面にへたり込んだ。
　李凱永は、指を櫂から引き剥がし、疲労した手や足の経穴を揉み解しながら、四方に油断のない視線を配った。
　石柱の群れは自然の産物ではないらしく、それぞれの上部には赤い目が描かれていた。そのせいか、多くの目に監視されているような感じがする。
「…やっぱり、気味が悪いだよ。早く抜けた方がいいべかな？」と、李凱永が言った。
　返事はなかった。石柱に背をもたれ、ぐったりと首を垂れている。
「大丈夫かやあ？」
　やはり、反応がない。
「おおーい」
　李凱永は不安になり、イムリスの頬に手を触れて、ぎょっとした。ひんやりと冷たいのである。慌てて首筋の脈を診ると、とく…とく…という弱々しい拍動が感じられた。脈拍も低くなっている。
　李凱永は、慌てて少年の頬を叩きながら、耳元で怒鳴った。
「イムリス！こら、目を開けろ！こんなとこで、寝るでねえだよ！」
　イムリスが薄っすらと目を開け、消え入るような声で呟いた。
「…力が…抜けるんだ。ここ…いちゃ…駄目…」
「一体、どうしただ？」
　イムリスは再び首を垂れた。気を失ったらしい。
　李凱永は、少年を横に寝かせると、心臓を刺激する経穴と体温上昇の経穴を交互に押し始めた。それを二、三百回ほど続けたが、何の反応も見られなかったので、彼は途方に暮れかけた。
　そのうちに、『ここにいちゃ駄目』というイムリスの声が脳裏に蘇ってきたので、李凱永は、取り敢えずこの場を離れようと思い、少年を抱き起こそうとした。

　突然、ギャアギャアという叫び声が静寂を破った。頭上からである。李凱永は折れた櫂を拾い上げ、声の方角に向き直った。
　見ると、翼長三、四メートルはあろうかという怪鳥が、輪を描きながら降下してくる。それは、李凱永の前に何かの大きな塊を投げ落とすと、ふわりと石柱の上に止まった。地面にごろりと転がったものは、甲冑に身を固めたペレウスであった。
　甲冑は傷だらけだったし、頭が血まみれだったので、死んでいるのかと思ったが、苦痛の呻きが聞こえ、生きていることがわかった。
　怪鳥は李凱永に襲い掛かってくる気配もなく、石柱の上からじっと見降ろしている。
　それは、若い女の顔と胸、大鷲の翼と胴を合わせた奇怪な生き物だった。長い髪は無数の蛇が絡み合っているようであり、異様に白い顔は悪意に満ち満ちていた。目は血走り、らんらんと狂気の炎を燃やしている。口は耳まで裂け、小さな牙が二本突き出ていた。（註五Ｂ）
　李凱永が殺気を放ちながら睨みつけると、怪鳥は甲高い声で人語を発した。
「そやつはギリシャ一の英雄と名乗ったくせに、まったく、口ほどにもなかったぞ」
「おめえがやっただか？」
「けけけけ…」と、怪鳥が嘲笑した。「やったのは、この呪われた場所の主だ」
「主？」
「魚燐の鎧に身を固めたライオンの姿をした魔獣だ。厄介なことに、あやつは雷を操ることができる」（註五Ｃ）
「…？」
「貴様は、まだ呪いの影響が少ないようだな」
「どういう意味だ？」
「もはや、貴様しか残っておらぬということだ。あやつと満足に戦えそうな人間は…」
「…ふうん。おらに戦えというだか」
「生き延びたいのならばな」と、怪鳥はにやにやした。「相手がどんな化け物であろうと何だろうと、あやつを倒さねば、わしも貴様らも呪いによって全ての生気を吸い尽くされ、亡者になって永遠にこの地をさまようことになろう」
「それに…」と、怪鳥が続けた。「あやつを倒し、封印の鍵を引き抜けば、呪いの力が失われ、皆、上の世界に戻ることもできようというものよ」
　李凱永は、ぐったりしているイムリスを一瞥した。
　確か、彼は『力が抜ける』と言って気を失ったが、本当に呪いとやらに生気を吸われているのだろうか？果たして、この邪悪な外見を持つ怪鳥の言を、そのまま信じてよいのであろうか？しかし、何もしなければ、永遠にこの地からの脱出は望めないだろう。…などという思考が、頭の中をぐるぐると回った。
「どうした？…やるのか、やらないのか？」と、怪鳥がからかうように言った。
　李凱永は腹を決めて、
「まあ、仕方ねえだあよ」と言った。そして、気絶しているペレウスの腰から剣を引き抜いた。青銅製で切れ味はさほどでもないが、ないよりはましである。
「…で、おらは、どうすればいいだ？」
「けけけけけ…」と、怪鳥が高笑いするとし、李凱永の前に降り立った。「わしの後についてくるがよい。封印の主の所まで、連れて行ってやろうぞえ」
　怪鳥は大きく翼を広げて力強く度羽ばたくと、旋風を巻き起こしながら薄闇の中に飛び立った。
　李凱永は、イムリスとペレウスを残して行くことが気がかりだったが、ペレウスの剣を抜いて腰帯に挟むと、怪鳥の姿を追いかけた。

　それから五、六分ほど走ったろうか。
　突然、目の前が開けた。そこは石柱の森にぽっかりと開いた円形の空間であった。直径は百メートルほどであろうか。中心にはピラミッドに似た台形の塚山があり、その頂上部に石造りの神殿が立てられていた。不思議なことに、神殿そのものが鬼火のような青白い光に包まれていた。
　静かであった。自分の呼吸する幽かな音でさえも、はっきりと聞こえるほどである。空気も妙に息苦しく感じられた。
　怪鳥が大きく羽ばたきながら石柱の一つに止まり、しわがれた声で言った。
「封印の魔獣は、あの呪いの神殿の中じゃ。呪いを解こうとする者に対して、容赦ない死をもたらすために、それだけのために、永劫の時の中で獲物を待ち続けておる」
「あんまり、気が進まねえだなあ…」
「臆したか。…けけけ。まあ、ペレウスのざまを見れば仕方ないかも知れぬのう」
「…」
「ならば、忠告しておこう。魔獣の角に気を付けることじゃ。あやつが雷を放つ直前に、燃え上がるように輝くのでな。それから、神殿の中心にの台座に黒い剣が突き刺さっているはずだが、これは魔獣を倒さぬうちは触れぬことじゃ。黒焦げになって死にたくなければな」
　李凱永は目を細めて、怪鳥を見つめた。
「何で、そんなによく知っているだか？…そもそも、おめえが、こんな所にいる理由は何だあ？」
「けけけけけ…。貴様らのような無知な人間どもが、あがき苦しみながら死んでゆく。その姿を眺めるのが、我らの無上の悦びじゃからな」
　そう言うと、怪鳥は再び宙に舞い上がり、神殿の上空でゆっくりと旋回し始めた。まるで、李凱永を急かすかのように。
「気に入らねえだなあ」と、李凱永は不機嫌そうに呟き、塚山に向かって歩き出した。

　李凱永は、塚山の階段状になっている斜面を登り、大理石の円柱の間を抜けて、神殿に入った。
　広さは、幅五メートル、奥行き十メートルほどであろうか。一部屋だけのがらんとした空間である。一番奥には黒曜石のような岩を円形に削った祭壇が設けられ、その中心に暗闇を凝固させたような異様な大剣が突き刺さっていた。
　その祭壇と大剣の周囲が青白い光を帯びている。何かの力を受け、空気そのものが輝きを発しているようである。
　祭壇の前には、大きな獣が寝そべっていた。姿形はライオンだが、全身をきらきらと輝く魚燐に覆われていた。まるで鎧である。額には三十センチほどの長さの一角を生やしている。
　ふと、右横の壁際を見ると、槍が一本落ちていた。ペレウスのものである。
　魚燐のライオンがむっくりと頭をもたげ、李凱永の方に目を向けた。燃えるような金色の目である。そして、大気を震わせるような咆哮を放った。
「去れ！」
　人語である。
「いきなり去れって言われてもだなあ…どうしたらいいか、わからねえだあよ」
「おとなしく、外で命が吸い取られて行くのを待つがよい。…さもなくば、死がより早く訪れることになろう」
　李凱永の目が細まった。
　どうやら、怪鳥の言っていたことは、真実のようである。少なくとも、生命力が呪いによって吸い取られつつあるということは。
「…おらは、おとなしく死を待っているつもりはねえだ」
「ふん、身のほど知らずめが…」
　魚燐のライオンは物憂げに起き上がると、身震いし、大きく咆哮した。頭の一角が青い光を帯び、空中に細かい無数の稲妻を散らした。金色の目からは燃えるような殺気が放たれた。
　一角の放電が強くなり、それが収束して、角の先に球電が生じた。
　李凱永の全身を戦いの本能が貫いた。次の瞬間、彼は舜意功と八神破を同時に発動させた。ともに、刹神拳の継承者が連綿と伝えてきた秘術である。これらの術により、脳内の情報処理の集中と身体能力の極大化が実現され、人間離れした速度と技が可能になるのである。
　李凱永の時間の経過が十倍ほど遅くなった。同時に色の認識と聴覚が失われた。と、同時に横に飛ぶ。
　ライオンの一角から閃光が走った。球電が矢のようにぶつかってきた。舜意功に入っているにもかかわらず、ものすごい速さである。
　球電が彼が立っていた空間を貫き、背後の石柱を打って、灼熱の炎を燃え上がらせた。彼は石壁を蹴って方向転換した。同時に、腰帯から青銅の剣を引き抜き、ライオンに投げつけざま、そのまま左手で床に落ちていた槍を拾い上げた。
　魚燐のライオンが大きく目を見開き、首と身体をぐるりと回して、李凱永の向き直ろうとしている。その一角が再び燃え上がり、球電を形成し始めた。
　青銅の剣がくるくると回りながら、向き直りかけたライオンの一角にぶつかった。
　激しい火花が飛び散り、球電が消え失せた。一瞬、一角の光が暗くなった。
　李凱永は、ライオンに向かって凄まじい速さで突っ込んだ。槍が一閃し、穂先で一角を叩き折る。そのまま石突きをライオンの鼻先に叩き込んだ。ライオンが反射的に石突きを咥え、前足で李凱永を掻き込もうとしたので、彼は槍を手放し、爪を掻い潜って側面に回り込むと、全身をぶるっと震わせ、魚燐に覆われた腹部にずんと右掌を叩き込んだ。その腹部が異様に深く沈み込み、ぼこぼこと不規則な波紋が広がった。
　李凱永は、さっと飛び退くと、八神破と舜意功を解いた。時間の進行が元に戻り、色と音の感覚が蘇った。
「…ば…馬鹿な」
　魚燐のライオンは、呆然として李凱永を見た。その鼻先と口から血が激しく噴き出した。角は折れ、帯びていた光は蘇らなかった。それは、李凱永に向き直ろうとしたが、途中で力尽きて床に崩れ落ちた。四つの足が細かく痙攣している。
　李凱永は、八神破直後の重い疲労を覚えながらも、両手に飛蹄代わりの小石を握り締め、ライオンの尾の方から慎重に近づいて行った。落ちていた青銅の剣を拾い上げ、ライオンの尾を突ついてみたが、反応はなかった。

「けけけけ、きゃつめを倒したぞ」と、耳障りな声が響き渡った。重々しい羽音がして、人面の怪鳥が倒れているライオンの首に降り立ち、そのまま鋭い爪で喉を引き裂いた。
　鮮血が噴き出し、血溜りが広がる。ライオンの四肢の痙攣も止まった。
　人面の怪鳥がにっと笑った。
「見るがいい」と、翼の先で奥の円形の黒い祭壇を指し示した。「もはや、封印の鍵を守る力は失われたのだ」
　見ると、確かに祭壇と大剣を包んでいた青白い光が消えている。祭壇と剣の色のせいだろうか、その辺りだけ暗さが濃いように見えた。心なしか、空気が冷たくなったように感じられる。
「人間よ、今こそ剣を引き抜くのじゃ」と、怪鳥が促した。「そして、この忌まわしい閉ざされた呪いから自由になるがよい」
　李凱永は疑わしそうに怪鳥を見返した。
「なんで、おめえが自分で引き抜かねえんだ？」
「…翼では引き抜けぬでな」
「その器用な足があるべえよ。そのライオンの喉笛を裂いたくれえだから、剣くれえ簡単に引き抜けるべさ」
「…」
　怪鳥は顔を醜く歪め、それからにっと笑った。
「抜きたくなければ、好きにするがよい。だが、ぐずぐずしていれば、貴様の連れの生命力が尽きようぞ。わしは、それでも構わんが。けけけけ…」
　李凱永は、怒りがふつふつとこみ上げてきたが、言い返す言葉がなかった。それに、様々なことが一度に起こった上に、手掛かりが少なすぎるため、何が真実なのか、さっぱりわからなかった。ただ、放っておけば、ペレウスとイムリスの命がなくなるということは、真実のようであった。
「わかっただあよ」
　李凱永は、円形の祭壇に向かってすたすたと歩き出した。

　祭壇に飛び乗ると、目の前に黒い大剣が束を上にして、深々と岩の中に突き刺さっていた。その大剣の周囲だけ、空気そのものが黒く染められているように感じられた。暗いのである。足先が氷を押し付けられたように冷えてきた。背筋に、冷たい汗が流れた。
　李凱永は、ちらっと怪鳥を睨みつけると、思い切って大剣の束を握り締めた。手から冷気が侵入してきた。えいっ、ままよ！と引っ張り上げると、ずりっという手応えとともに、意外に簡単に引き抜けた。
　重さは、柳葉刀（中国刀）よりも少し重いくらいであろうか。
　これでどうやって呪いが解けるんだべなあ？と、李凱永がしげしげと大剣を見つめていると、その剣がごうっと黒く燃え上がったように見えた。燃え上がったのではない、暗闇が噴出しているのである。
　と同時に、李凱永の心の中に異質な意志が充満し、何が何だかわからぬままに、憎悪が爆発した。
　黒い炎が火山の噴火のように噴き上がり神殿の屋根を吹き飛ばすと、天を覆っている海を貫いた。
　地面が大きく鳴動し、塚山に無数の地割れが走った。水の砕け散る音とともに、頭上から膨大な量の海水が、崩れ落ちてきた。
　李凱永は呆然とその光景を見ながらも、自分ではないものが勝ち誇ったように笑う声を聞いていた。

--------------------------作者註--------------------------------
註五Ａ：ステュクス河
ギリシャ神話における三途の川。死者が冥界に行く前に渡るとされている。

註五Ｂ：怪鳥
ハルピュイア。英語ではハーピーとも言う。

註五Ｃ：魚燐のライオン
作者が創造した怪物。それだけ。