「銀の矢」

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十、変化

 太陽は中天を過ぎていた。昨夜の出来事が嘘のような晴天である。強烈な日差しがじりじりと照り付け、大地と全ての動植物を焼き焦がそうとしているようだった。
 見渡す限り、延々と荒れた丘陵地帯が広がっている。その中に、頂を尖らせた岩山がぽつんと立っていた。西側は切り立った崖をなし、その他の方角は針山のように突き出でた岩々と茨の茂みにより、侵入者を頑強に拒んでいた。ここに至る道も北と南の二本の小道しかない。
 頂上の岩の上からは、周囲五キロの様子が一望できる。
 南に目を向けると、ここから一キロほどにある丘の麓に小さな村が見えた。戸数は百余りであろうか。白っぽい日干し煉瓦でできたサイコロのような小屋が不規則に立ち並んでいる。この地方の他の村と同様に、周囲には空掘と土塁がめぐらされていた。土塁の内側には、竹薮が茂っている。
 村の外には、幾つかの羊の群れが散り、のどかに草を食んでいる。それを見守っている数人の羊飼いの影がぽつんぽつんと点在している。

 李凱永は尖った岩の上に座し、心臓の回りに奇妙な圧迫感を覚えながら、村の方に目を凝らしていた。ここは地形的に守るのに絶好の場所であり、奇襲を受ける心配はまずない。それなのに得体の知れない不安を消し去ることができないのである。
 右隣には清楚な樫の精が静寂をまといながら佇んでいる。樫の精も、厳しい表情を崩していない。他の木の精たちは、岩場の四方に配置され、気配を殺して、完全に風景に溶け込んでいた。
 李凱永は背後を振り返った。
 ペレウス、ペンテシレイアは、槍の穂先を小石で丁寧にこすっていた。
 少し離れた地面には二人の少女が座り、まるで魂を抜かれたかのように暗い顔をしている。
「これからいかがなさいますか?」と、樫の精エレが控えめに尋ねた。
「そうだなあ。あの子たちを帰さなきゃなあ」
「今のままでは、帰しても同じことの繰り返しになりますね」
「んだ。元から断たねえとなあ。けど…」
 李凱永はその先の言葉を呑み込んだ。
 不意に、李凱永の腹がぐううううと鳴った。
 樫の精は、はっとして尋ねた。
「お腹が、すかれましたか?」
「は…はああ。どうやら、そのようですだ」
「他の方々は?」
 ペレウス、ペンテシレイアが頷いた。二人の少女は答えなかった。
 樫の精は人間には聞き取れない言葉で仲間に声をかけた。岩陰から、二人の精が現れ、籠と皮袋を人間たちに手渡した。籠には樫、栗、松などの木の実が、皮袋には水が入っていた。木の実は渋味が強かったが、久しぶりの食料であり、山海の珍味にも劣らずおいしく感じられた。
 ペレウスとペンテシレイアは頬を栗鼠のように膨らませながら顎を動かしていた。

 李凱永は、木の実を幾つか口に放り込み、ゆっくりと噛み砕きながら、再び周囲の景色に目を凝らした。岩山を吹き上がってくる風が、妙に生暖かい。東南の空が曇り暗くなっている。雨が近いのであろうか。
 無意識のうちに、懐に手が入り、飛蹄代わりの小石を詰めた皮袋をまさぐった。縁が尖った三センチ角くらいの石が十個以上入っている。
 ふと、彼方の景色が僅かに揺らいだような気がした。先に、声に出したのは樫の精であった。
「あ、あれは…」と、東の方の一点を指差した。
「ん?」
 草原の端がかすかに揺らいでいるように見えた。芥子粒のような点の群れが草の間に見え隠れしながら、村の方に向かっている。距離は三キロほどあり、十分もしないうちに村に到達するような勢いで移動している。
「なんだべか?」
「狼の群れらしゅうございます」
 精っちゅうのは目がいいだなあと感心しながら、李凱永は尋ねた。
「数は?」
「二十頭以上はいるように見えます」
「ふうん」
 ペレウスとペンテシレイアが顔を上げた。
「一つ目とか、変な鳥は見えるだかなあ?」
「いえ。狼だけでございます。他の道筋を通っていなければですけれど…」
「目的は?…あの村でも襲う気だべか」
「おそらくは」
「化け物の仲間っちゅうことだか」
「…」
 樫の精はうなずいた。
 その会話を聞いていたのであろう。反応したのは二人の少女たちであった。
「おっかあ!」
「あんちゃ!」と、口々に叫んだかと思うと、岩場から飛び出し、村に向かって一目散に駆け下りていったのである。

「さあて…」と、ペレウスが立ち上がった。ペンテシレイアもぺろりと舌なめずりし、槍を担いで、李凱永を見上げた。
「行くのでござりましょう?」
「んだな」
 李凱永はにっと笑い、皮袋からもう一口水を含むと、樫の精を見た。
「おらたちは行くだが、エレさんたちは、どうする?」
「むろん、ご助勢いたします」
「ありがとうですだ。でも、エレさんたちには、頼みたいことがありますだあよ」
「はい」
「辺りの様子に気を配っておいてもらいてえだ。まだ、お客さんが来るかも知れねえべさ」
「承りました」
 李凱永はにっこり笑うと、槍を担いで岩山の斜面を駆け下り始めた。その後ろに、ペレウス、ペンテシレイアが続いた。

 少女たちが大声で危険を知らせながら村に飛び込んだのは、それから五分ほど後のことであった。既に、羊飼いたちは少女たちの様子から異変を知り、慌てて村に引き返していた。従って、狼の群れが村に襲来したときには、棍棒、斧、鎌、弓、刀などを手に家々から飛び出してきた二、三十人の男たちが、辛うじて村の出入り口を固め終わっていたのであった。
 狼の群れは怯むことなく、待ち構えていた男たちの中に突っ込んだ。
 たちまち、辺りは怒号と咆哮の嵐となった。
 狼たちの敏捷さは目を見張るものがあった。まるで豹のような素早い動きで村人の攻撃を避け、隙を見て腕に噛み付いて振り回す。体格も大きく、虎ほどもありそうだった。村人に斬られた狼もいたが、多少の傷は気にもかけないどころか、かえって凶暴さに拍車をかけるだけであった。
 数の上では村人もほぼ同じではあったが、じりじりと狼の勢いに押され、土塁を背に包囲され始めていた。

 そこに、李凱永、ペレウス、ペンテシレイアが、狼たちの背後から乱入してきたのである。
 最初に偉丈夫とアマゾンの戦士が飛び込み、槍を風車のように振り回して、数匹の狼を跳ね飛ばした。新たな敵に気づいた狼が向かってくるところを石突(槍の尾)で殴りつけた。
 李凱永は、彼らの背後から石の飛蹄を打って、援護した。狼が石を食らって怯んだところを、二人の槍が薙ぎ払う。穂先が足を斬り飛し、石突が脇腹を強打する。脳天を直撃する。たちまち五、六頭を倒してしまった。
 三人の加勢を得て、村人たちが勢いを盛り返し、さらに三頭が倒された。
 狼の群れが凍りついたように動きを止めた。
 一番大きな狼が、凶暴な眼で李凱永を睨みつけ、唸り声を上げた。
 李凱永は、こいつが頭目かと見定め、にこっと笑ったものである。その眼には殺気すらない。
 その狼は、大きく目を見開き、低く唸りながら後ずさりしたかと思うと、一声大きく咆哮し、ぱっと身を翻して駆け出したものである。他の狼たちも後に続き、瞬く間に草の波間に消えていった。

 村人たちに安堵の色が浮かび、互いに顔を見合わせた。腰が抜けてへなへなと地面に座り込む者もいる。負傷者に駆け寄り、手当てをする者もいる。
 たわしのようなあご髭を生やした男が三人の異邦人に声をかけた。
「どこのどなたか存じませんが、助太刀、ありがとうございましただ。おかげ様で助かりました」
「んにゃ。まだ、終わってねえかも知れねえだあよ」と、李凱永が答えた。
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、一陣の風が吹き寄せてきた。草原が波立ち、竹林が揺れる。ふと気が付くと、いつの間にやってきたのであろうか、弓矢で武装した五人の乙女と猟犬たちが村の入り口に立っていた。
 木の精エレが李凱永のもとに駆け寄った。
「リュカイオン殿。キュクロプスです。キュクロプスが…」
「やっぱり、来ただか。で、数と位置は?」
「数は三。まもなく、草原の向かいに現れる頃合かと」
「他には?」
「分かりませぬ」
 李凱永の頭の中で様々な思考が駆け巡った。目は当たりの地形や、物の配置などを素早く見取っている。
 その間に、キュクロプスと聞いた村人たちに動揺が広がった。顔から血の気が引き、がたがたと震え出している。狼とは違い、一つ目の鬼には根源的な恐怖があるらしく、戦意は失せていた。
「おい、リュカイオン!何か、策があるか?」と、ペレウスが大太鼓のような大声で怒鳴った。李凱永は、にんまりとし、負けぬ大声で答えた。
「あるだあよ!」
「何だ、それなら早く言え!」
「まず、年寄りと女子供は全て後ろの丘の上に登らせるだ。男どもは、そこの竹を一本づつ切り、竹槍にしてから丘に登る。丘の上からなら、あの化け物相手に戦えるだよ」
「皆の者!今のリュカイオンの言葉を聞いたか!生き延びたくば、家族を丘の上に走らせろ。それから、竹槍を作って、丘に上がれ!」
 ペレウスの迫力ある怒号に、村人たちが雷に打たれたかのように散って行動を開始した。

 村の家々に伝令役が走り、緊急事態と指示を大音声に告げていくと、それぞれの家から女、子供、老人が飛び出し、ばらばらと丘の上に走っていった。皆、着の身、着のままで、細い道を息を切らしながら上がっていく。中には小さな赤子を抱えている者たちもいる。
 木の精たちは、既に丘に登り、弓矢を手に布陣を終えていた。
 その間、男たちは竹林に走り、刀で根元から切り出し、枝を払い、鋭く穂先を削り出した。李凱永たちも、一本づつ竹槍を作った。たちまち、長さ五メートルほどの長槍が二十本以上もできあがる。
 その頃、草原の向こうに、小山のような影が三つ現れた。一つ目の巨人キュクロプスである。それがゆっくりと近づいてくる。否、ゆっくりではない。桁外れの巨体が故にゆっくりと見えているだけで、実際にはかなり早い。あと、二、三分でここまでやってきそうな勢いである。
「よし、おらたちも丘に登るだよ!」
「皆の者、登れえ!」と、ペレウスが怒鳴った。
 各自、竹の長槍を手にし、一目散に丘に向かって駆け出した。

 丘の頂上には、老人や女子供が、恐怖と不安に震えながら身を寄せ合っていた。子供の中には緊張に耐えかねて泣き叫んでいる者もいる。村に面した斜面の上には、槍を構えた村人たちと李凱永たち、弓を抱えた木の精たちが一線となり、眼下の様子を見守っていた。
 一つ目鬼たちは、先ほど襲来した狼の群れを従え、既に村の入口まで来ていた。凶暴な唸り声を上げながら、目を大きく見開き、こちらを睨み上げている。その巨体の筋肉がぴくぴく波打っているのが、ここからでも分かった。
 李凱永は平静な声で樫の精に言った。
「エレさんたちは、狼どもを頼むだよ」
「お任せください」と透明な声が応じた。
「皆の衆、一つ目が登ってきたら、何も考えずに駆け下りて、槍から先にぶつかっていくだ!」
「おおう」と、幾つか震える声が応じた。
「皆の者、家族を守るために、死ぬ気で行けいっ!分かったか!」と、ペレウスが怒鳴ると、
「おおっ!」とやや力強い声が返ってきた。
「それ、くるぞ」と、アマゾンの王女が呟いた。

 一つ目たちが一斉に咆哮した。
 それを合図に、狼の群れが駆け上がってきた。続いて、三頭のキュクロプスが足音を響かせながら、のしのしと上ってくる。
 距離が二百メートルくらいのところから、木の精たちの射撃が始まった。彼女たちの狙いは正確であり、素早い動きの狼たちを次々と倒していった。一つ目巨人にも矢が向かい、何本も突き刺さったが、皮膚で止まっているらしく、勢いを止めることはできないようだった。
 射撃を逃れた狼が上がってくるのを、木の精の猟犬たちが走り出して迎え撃った。
「よし、今だあ!」
「突っ込めええっ!」と、ペレウスが号令した。
「うおおおおっ!」
 村人たちは竹槍を巨人に向けたまま一斉に駆け下りた。李凱永、ペレウス、ペンテシレイアは既に先頭を走っている。下りなので、斜面の草を蹴り飛ばし、あっという間に巨人たちとの間合いが詰まって、激突の瞬間が訪れた。
 百雷を合わせたような咆哮が轟き、巨人たちの足が止まった。
 巨人たちの胸や腹に何本もの竹槍が深々と刺さっている。背中まで貫通した槍もあった。槍の端に必死にしがみついている村人が小猿のように見える。巨人はそれでも腕がぶうんと振り回して、人々に反撃しようとしている。
 その瞬間、李凱永の姿が掻き消え、三頭の巨人たちの間を一瞬の陣風が吹き荒れた。
 巨人たちの動きがぴたりと止まった。
 ペンテシレイアが気づくと、目の前に黒い血を滴らせた剣を下げ李凱永が幽霊のように立っており、肩ではあはあと大きく息をしていた。彼は、青ざめた顔で、
「後は、頼んだだあよ」とかすれた声で呟き、その場に崩れ落ちた。
 一つ目たちの大きな目玉と咽喉が大きく裂け、ぱっくりと傷を開く。そこから、何メートルにもわたって黒い血が噴出した。
 ずしいんっ!と、ものすごい地響きとともに巨人たちが倒れ伏した。

「おい、リュカイオン!」
「リュカイオン殿っ!」と、心配そうな声がする。
 李凱永は耳元で呼ぶ声と頬を叩かれる感触により意識を取り戻した。目を開けると、ペレウス、ペンテシレイア、樫の精、村人たちの心配そうな顔が並んでいる。戦は終わったらしい。
「いきなり倒れられたので、心配いたしましたぞよ」と、アマゾンの王女が涙ぐみながら言った。
「…ん。あ、ああ」
 李凱永は、鉛のように重い疲労と戦いながら、呆けた顔をして立ち上がり、辺りを見回した。
 下の斜面に竹槍で針鼠のようになったキュクロプスが三体息絶えていた。そこから血の流れが川となって斜面を流れ下っている。狼たちの死骸もあちらこちらに散乱している。
「よき戦ぶりだったな」と、ペレウスが李凱永の肩を叩いた。
「ペレウスもな」
「はははっ」

 その時、村の長老とおぼしき老人と有力者らしい男が数人、李凱永の下にひれ伏し、震える声で言った。
「お助けいただきありがとうごぜいますだ。あなた様は、一族の滅亡を救ってくださりました。我らは、この日を忘れず、未来永劫感謝するために、あなた様の神殿を立てさせていただきますだ」
「ありがてえこってすだ。ありがてえこってすだ…」と、皆が頭を地面にこすりつけた。
「え?神殿?何のことだあ」
「あなた様は、神様の化身にちげえありましねえだ。木の精たちを従えていることといい、いきなり風になって、キュクロプスをあっという間に倒しなされたことといい、神様であらっしゃるにちがいねえと思いますだ。まさか、こうも間近に神様を拝めるとは。ありがてえこってすだ…」
「い、いや。これは…ええと…」
 李凱永は否定しようと思ったが、よい説明が思いつかなかった。ただ首を横に振るだけであった。

 ふと、狼の死骸を見ていたペンテシレイアが声を上げた。
「リュカイオン殿!こやつら、妙でござりまするぞ」
「?」
 人々が何事と思い、アマゾンの王女が示す狼の死骸に近づいて見ると、確かに妙であった。通常の狼とは姿形が異なっているのである。尾が短めであるし、四つの足も太い。鼻と口の尖り方も少なく、何となく顔立ちが人間に似ているような気がする。
「長老様!」と、村人の一人が、一つ目巨人の死骸の傍らで叫んだ。「ちょっくら、来てくだせえまし」
 今度は、そちらに人々が移動した。
 村人は巨人の頬に露出した皮膚の模様を指差した。薄くはなっているが、入れ墨の一部のようである。ベレウスが短剣を抜き、その周囲の剛毛を剃り落とした。すると、蛇の頭のような紋様が現れた。これが頭をぐるりと取り巻いているらしい。
 長老は目をしばたかせ首を何度も傾げた。
「おかしいのう。キュクロプスが入れ墨をするとは。それに、何と、この紋様は奥谷のアックシのものとそっくりじゃ」
「奥谷のアックシとな?」
 ペンテシレイアが問い返した。
「ここから三日ほどのところに奥谷という町がありますのじゃ。そこにアックシと申す名高い怪力が住んでおりまして、そやつの頭皮にはこれと同じ紋様の入れ墨が彫ってありましただ」
「キュクロプスが、人真似で入れ墨を彫るものか。大体、そんな器用な真似ができるはずがないわ」と、アマゾンの王女。
「こいつが、そのアックシかも知れねえっつうことだあよ」
 李凱永は硬い表情で言った。

 突然、南東の方角からつむじ風が吹き寄せ、樫の精たちを包み込んだ。風はすぐに消え、再び静けさが蘇った。
 樫の精エレは、顔を曇らせたまま李凱永に近づいた。
「リュカイオン殿、風の精たちからの伝言でございます」
「?」
「南東の深い谷から得体の知れない恐ろしい呪いが広がっているらしゅうございます。森は枯れ、川は汚され、人や獣は化け物に変化して、狂ったように殺戮に駆り立てられているとか。この辺りの野にも程なく化け物どもで溢れる故、生き延びたくば、北へ、西へ向かうべし。…と」
「あいやあ」
 李凱永は、ぼりぼりと頭を掻いた。皆の視線が、彼に集まる。その言葉を固唾を呑んで待っているのである。李凱永は、腹を決めて口を開いた。
「事態は一刻の猶予も許さねえみてえですだ。はっきり言えるのは、皆、できるだけ早く、ここから逃げ出すべきだっちゅうことだ。…今すぐに。さもなければ、化け物の餌になるか、呪いを受けて化け物に変化するかの道しか残ってねえだあよ」
 長老が目をぱちくりさせながら聞き返した。
「リュカイオン様。今、すぐに村を捨てよ…とおっしゃるので?」
「んだ」と、李凱永が大きく頷いた。
「して、どこへ行けばよいのでしょうか?」
「ペンテシレイアの国、アマゾンへ。そこまでは、ペンテシレイアとペレウスが案内してくれるだ」
「ちょ、ちょっと待て!」
「わらわは帰らぬぞよ!」
 二人が声を上げたが、李凱永は取り合わなかった。
「二人には、村人の護衛をお願いするだ。そして、途中の村々に、このことを伝えてくれろ」
「リュカイオン殿は?」と、ペンテシレイアが言わずもがなのことを聞いた。
「おらはアルテミス様を助けにいくだ。それが、おらの道だ」
「一人では無謀じゃ」
「かえって目立たなくていいだあよ」
 ペンテシレイアは沈黙したが、その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ペレウスが王女の肩をぽんぽんと叩いて慰めた。
 長老は顔をくしゃくしゃにしながら深々と礼をすると、村人に向き直り、大きな声で言った。
「皆の者、たった今から、我らは村を捨て、西に向かう。生きるためじゃ!出立は夕支度前。今夜は休みなしに進む。直ちに支度にかかれ」

 それからの村人の動きは早かった。太陽が天の半分くらいまで落ちるときには、少ない家財や食糧を荷馬車に積み、羊たちを集めて、村の西側に集合を終えていた。
 そこで、村人たちは李凱永の前に行列をなした。「神の化身」と信じる李凱永の手に触れてもらうためだった。彼は一瞬面食らった顔をしたが、これが最後と思い、赤子から老人までの頭をなで回したものである。
 最後に、李凱永はペレウス、ペンテシレイアと別れの挨拶をした。ペレウスは固く手を握り合っただけであった。ペンテシレイアは泣きそうな顔をうつむけ李凱永の前に立った。涙がぽろぽろと地面に滴り落ちている。それから泣き濡れた顔を上がったかと思うと、いきなり李凱永の頬を叩いた。
 ぱちーん!と大きな音がした。
 李凱永は訳もわからず呆然とした。ペンテシレイア自身も驚いたらしく、赤くはらした目を丸くし、やがてぎこちなく笑いながら言った。
「リュカイオン殿!一本取ったぞよ!約束じゃぞ、生きて帰って、わらわと契ってたもれ…」
「はははははっ!」と、ペレウスが大笑いして、李凱永の背中を叩いた。「貴公、これで死ねなくなったな!」
「…」

 村人たちを夕暮れの中で見送った後、李凱永は樫の精エレと向かい合った。
「じゃあ、おらも、そろそろ行くだあよ。エレさんたちは、これからどうするだね?」
「わたくしたちは我が森から遠く離れることは出来ませぬ故、ここでお別れでございますね」
「この辺りの森が枯れる前に、アルテミス様を助けて見せるだよ」
「はい」と、樫の精はにっこりした。「それでは、我らが最後のはなむけをお受け取りください」
 別に木の精が、肩に背負う形の皮袋を持ってきた。
「中には木の実と果実、羊の胃に詰めた水が入ってございます」
「かたじけねえだ」
「これから先では、決して土地の水を飲んではなりませぬ。不浄な水を口にすれば、破滅を呼び覚ますことになるでしょう。これだけは、覚えておいて下さりませ」
「わかっただ」
 木の精たちは李凱永に向かって軽やかに礼をした。すると、一陣の風が吹き寄せ、彼女たちを彼方の森に運び去っていった。

 風が唸りを上げて、薄暗くなりかけた荒野を吹き抜けていった。
 李凱永は、たった一人で草原を渡っていった。肩に槍、背中に皮袋を背負い、腰に剣を巻いている。背嚢の中で水が揺れて音を立てている。
 曇っていて月も星も見えないが、目指す奥谷の方角は頭に入れてあった。このまま草原を抜けると森に突き当るが、彼は森を迂回するために、右に折れ緩やかな丘陵地帯に進んだ。そこから尾根伝いに登る。高所を行けば、下からは見えにくいし、逆にこちらからは見晴らしが利くからである。
 丘の上から再び奥谷の方角を目指した。
 やがて、日がとっぷりと暮れた。
 李凱永は、近くの岩陰に身を寄せると、硬く冷たい岩にもたれ、皮袋を抱えて丸くなった。寝息のない静かな休息が訪れた。

 その深夜である。
 李凱永は、ざわざわした気配に目を覚ました。周囲を見回しても墨を流したように真っ暗で何も見えない。気配は下のほうから聞こえてくる。しばらくすると、闇に目が慣れてきたので、ぼんやりとだが景色が見えるようになった。
 下方に目を凝らして見ると、何やら川のようなものが流れていた。
 否、川ではない。奇妙な獣の群れがぞろぞろと移動しているのである。巨人のような二本足でのっそりと歩いているもの、馬のような四本足で歩いているもの、あるいは這っているもの、跳ねているもの、様々である。それが、列をなして、北西の方向に向かっている。
 無数の低く凶暴な唸り声が共鳴し夜の闇を震わせていた。
 李凱永は身じろぎ一つせずに立ち尽くした。
 その群れは十分ほどで通過し、辺りに再び静寂が蘇った。

 翌朝、まだ暗いうちに、李凱永は出発した。
 その日は、天を分厚い雲が覆っているために、いつまでも暗いままだった。食事は歩きながらとった。渋いはずの木の実の味が感じなくなっていた。
 丘陵が途切れ、茶色がかった草原になった。その草の海の中に一筋の真新しい道ができ、南東に伸びていた。昨夜の群れによって踏み固められたのであろう。様々な足跡や重いものを引きずったような跡が残されている。
 かすかに腐肉のような臭いが立ち上っている。
 辺りには、生き物の気配がまったく感じられなかった。風が枯れかけた草をさざめかせる音だけが聞こえてる。耳を地面につけて神経を集中しても、何も聞こえない。
 李凱永は、その道から二百メートルほどの距離をとって、再び進み始めた。
 その日のうちに破壊され尽くした村を二つ通過した。
 
 次の日、道は再び丘陵地帯に変わり、昼頃になると、山が目に見えて高くなり始めた。