「銀の矢」
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十一、救出
李凱永は人気のない山野を一人歩いていた。
雲が厚く、太陽の位置はまったく分からない。細い道から三十メートルほど緩やかに下ると、谷川が流れている。その上流が、おそらく目的地の奥谷の方向であろう。
両側の丘陵が次第に高く険しくなり、岩肌が露出してくきた。丘陵から山岳に変化するにつれ、踏みしめる地面も、砂から砂利に、小石に、石へと変わり、風景も石や岩肌の灰色と暗褐色が濃くなって行った。
草木もめっきり見かけなくなった。谷川に沿って潅木が僅かに茂っているが、暗緑色の水のせいなのか、殆どが葉を枯らしていた。
谷の斜面は砂岩質であり、風雨による無数の浸食の跡が刻まれていた。両側の山が高くなるにつれて、侵食も深くなっていく。
谷間を風が空虚な音を鳴らしながら吹き抜けていった。
「ふえっくしょい！」と、李凱永はいきなりくしゃみをした。
間の抜けたこだまが返ってきた。
あいやあ。
李凱永は、鼻水をすすり上げ、ぼりぼりと頭を掻いた。空気が冷たくなってきているようである。高度が上がってきたのであろう。
彼は、風を避けるために川辺の岩陰に降り、今日最初の食事をとった。
ふと、谷間の空気全体が震えたような気がした。何故か、心臓の鼓動が早くなっている。何か、とてつもなく嫌な感じがする。
李凱永は、食事を中止し、槍を握り締めた。
空気が冷たくなり、流れ始めている。
やがて、低い地鳴りのような音がかすかに聞こえてきた。音が次第に大きくなる。谷の奥を見ると、川が盛り上がり、白波を立てている。
ごぉーっ！という唸りが伝わってくる。
李凱永は、さっと袋を背負い、斜面を駈け登り始めた。
黒茶色の荒々しい津波が見る見る迫ってくる。高さは五メートル以上もあるだろう。両川岸を侵食し、岩や潅木を貪欲に巻き込みながら、下ってくる。大きな岩にぶち当たると十メートルを超えるような水しぶきが上がる。やがて、それは突風とともに眼下に到達すると、先ほど昼食を取っていた岩をあっさりと押し流していった。濁流の水音と岩が砕ける音で谷そのものが震動したものである。
津波が過ぎ去ると、波が徐々におさまり始め、川面の水位も下がっていった。
「…」
李凱永は硬い表情でざわついている黒い水面を睨みつけていた。
そこに、先ほどまでなかったはずの長いものが浮かび上がっている。最初は、流されてきた大木かとも思えたが、どうやら違う。枝がなくのっぺりと黒光りしているのである。水位が下がるにつれて、全貌が明らかになってきた。長さは五十メートルを優に超えるだろう。半分以上を水面下に隠しているが、太さは直径二メートル以上ありそうだった。
それがゆっくりとうねった。川面に波紋が広がる。
生き物だ。
「…あいやあ」
李凱永は目をぱちくりさせた。子供の頃に読んだ中国の神話にも、龍や大蛇の話はつきものであったが、いざ目の当たりにすると、思考が停止した。生き物というより怪獣だ。まるでＴＶか映画でも見ているような気がして、現実感を持てない。
その巨大な蛇は、泥水を滴らせながら、ぬうっと鎌首を上げた。それだけでビルの三階くらいの高さがある。瓦のような大きさの鱗がぬめぬめと光っている。口を殆ど閉じたまま、赤く細い舌がちろりと出た。細いとはいっても、実際には丸太のような太さであろう。
鎌首が揺れ、左右を見渡した。
そのらんらんとした巨大な目が斜面に張り付いている李凱永を見つけた。
大蛇の動きが停止し、もう一度、ちろりと舌が出た。それから全身がゆらりとくねり、のろのろと李凱永の方に向きを変えた。動きに早さがないように見えるが、その巨大さを考慮すると、実際にはかなりの速さであろう。そして、ずるりずるりと進み始めた。
李凱永は、さしあたり逃げるしか思い付かなかった。
…戦車かミサイルが必要あるよ。と、李凱永は途方に暮れながら思ったものである。その間にも手足を動かし、ごつごつした急斜面を猿のように登っていく。斜度は五十度を超えているだろう。感覚としては、断崖絶壁である。高さにして、既に三十メートルほどは登っているが、崖の上までまだ二十メートルの高さがあった。
大蛇が、累々たる岩と泥の上を重々しい音をたてて這いずりながら、岩崖の下に到達した。
李凱永は、あと十メートルで崖の上だ。
下を振り返ると、大蛇がかっと口を開けた。足を滑らせたら、そのまま呑み込まれてしまいそうな赤い穴と鋭い牙が見える。それは、そのままずるりと登り始めた。
李凱永は、やや息を切らしながら、ようやく登り切った。
大蛇は十五メートルほどの高さで身体を曲げ、岩をよじ登ろうとしているところだった。巨体とその重さのために、急斜面に引っかからないらしい。急に進みが鈍くなった。懸命に巨体をこすりつけ登ろうとするのだが、重さに耐えられず、斜面がぼろぼろと崩れるばかりである。
李凱永は、辺りを見渡した。人間でも動かせそうな岩石が幾つか転がっている。そのうちの小さ目の丸い岩を押すと、意外に簡単に転がったので、そのまま崖から落とした。
その岩は勢いよく転がり落ち、斜面で大きく一回跳ねると、大蛇の胴を直撃した。岩が大きく跳ね返されて地面に落ちた。驚いたことに、大蛇は何も感じていないらしい。損傷どころか、鱗一枚はがれていない。
大蛇の首の辺りがやや膨らみ、低い笛のような空気音が響き渡った。大きな丸い目でこちらを睨み上げている。
それにしても、的が大きいので、何を落としても当たるだろう。
李凱永は、次に彼の腰ほどもある岩に向かい、槍の柄をてこにして転がし始めた。地形的にやや下っているので、動き始めると後は楽である。そのまま狙った方向に誘導し、崖から突き落としてやる。
岩はがつんがつんと斜面とぶつかりながら加速していき、真正面から大蛇の頭を直撃した。跳ね返って、大木のような胴に落ちる。大蛇は、鎌首をふらふらと揺らしただけで、特に傷を負った様子もなかった。何と言う固さの鱗であろうか。
それが大きく鎌首をもたげた。見る見る高さが二十メートルほどにもなった。崖の高さの半分近い。その巨体が振り子のように揺れたかと思うと、崖に向かって叩きつけてきた。
ずしいいんっ！という重い衝撃音。地面が揺れ、ばらばらと斜面から岩が崩れ落ちた。それらが当たっても大蛇は気にも止めない様子で、再び鎌首を上げた。
ずしいいいいんっ！先ほどよりも大きい揺れがきた。
李凱永は、危険を感じ、足を取られながらも崖の縁から飛び退いた。
がりがりっという音とともに砂岩質の崖に亀裂が走り、李凱永を追い越した。ふっと身体の重さが消えたような感覚がしたかと思うと、崖全体が崩壊しながら沈み込んだ。
李凱永は、とっさに舜意功を使った。風景から音と色が消え、白黒の世界となった。その代わり、時間の経過がゆっくりと感じられる。彼は、崩れ行く足元の地面から大きな岩の上に飛び移った。その岩も崩れた土砂に巻き込まれながら不規則に回転し始めているので、鈍く感じられる四肢を懸命に動かして移動しなければならなかった。上からは、大小様々な岩石が降りかかってくる。横からも跳ねてくる岩がある。それらの動きを把握し、予測しながら、槍の柄で振り払ったり、別の岩に移動したりした。大蛇のいる下を見ている余裕などない。
二、三分経過したような気がしたが、実際には十秒ほどであったろうか。ようやく落下の速度が緩くなり、跳ね回る岩石の数が急減した。土砂の動きがゆっくりと停止し、上からは細かい小石が落ちてくるだけになった。それも落ち着いた。
李凱永は舜意功を解き、槍を構えたまま辺りを見回した。
「はあ、はあ、はあ…」と、意識して肩で息をする。次の八神破に備えて出来るだけ酸素を身体に取り込んでいるのである。
大蛇は、胴の中ほどと尾以外の大部分を土砂に埋没させていた。血は流していないし、尾がゆったりと動いている。やはり、生きているのだ。
それが埋もれた辺りの岩石と土砂が、かすかに上下に揺れている。その揺れが大きくなったかと思うと、岩と地面が盛り上り、左右に崩れた。その中から大蛇の頭がのぞいた。それが岩石の重みに抵抗しながら鎌首をもたげようとしている。丸く大きな目が現れ、李凱永を見つけた。
その瞬間、李凱永の姿が掻き消えた。
李凱永は舜意功に入り、八神破を発動させていた。再び無音と無色の世界に変わった。時間がゆっくり流れる。八神破で身体速度が増大したため、彼には重力が弱くなったように感じられる。空気の抵抗が増し、濃密に感じられる。彼は低い姿勢となり、地面に這うように走っていた。走るというよりも、二、三メートルの間隔で飛んでいると言った方がいいかも知れない。地面を蹴り、別の岩で方向転換し、そのまま槍とともに突っ込んだ。
大蛇の頭がじりじりと持ち上がる。
槍の鋭い穂先が、西瓜のような大きな目に飛び込んだ。それは少し窪むと、蜘蛛の巣のような細かい亀裂を走らせた。続いて槍がずぶずぶと侵入する。李凱永はそのまま一気にえぐり込んだ。槍がぶるぶるとうねりながら根元まで埋まる。おそらく、反対側近くにまで穂先が達しただろう。
大蛇の頭がびくんと震え、速度を増して跳ね上がった。
李凱永は、大蛇の頭を蹴って、飛び退いた。視界がぼんやりしてきたので八神破を解き、着地した。色と音の世界が戻り、時間の経過が早くなった。
鉛のように重くなった身体を引きずるように、大蛇から十メートルほど距離を取った。酸欠のため、息が苦しい。心臓がばくばくと脈打っている。八神破をもう一度使ったら、今度は命が危ないかも知れない。
大蛇は五、六メートルほど鎌首をもたげると、李凱永の方に首を向け、真っ赤な口をかっと開いた。反対側の目から穂先が飛び出ているのが見える。
見えてねえはずだ。と思いながら、李凱永は腰の剣を抜いた。
大蛇の首がぐらりと傾き、捻りながら大地に崩れ落ちた。地面が揺れ、ずしーんという大きな音が谷間に響き渡った。砂煙が舞い上がる。
大蛇の巨体はぴくぴく震えていたが、そのうちに全く動かなくなった。口をだらりと空けたまま半分ほど腹を見せている。長い舌が力なく地面に伸びていた。半分埋もれている尾も動かない。
殺気も感じられなかった。
「…」
李凱永は剣を鞘に収めると、血の気の失せた顔で、ぺたんと地面に座り込んだ。この巨大な化け物を本当に倒したのだ。我ながら信じられなかった。
まだ、大蛇から視線を離す気にはなれなかったが、他にも敵がいるかも知れないと思い、周囲の様子にも素早く目を配った。今のところ、動くものはない。
ふと、故郷の街の市場で食用に蛇を売っていたことを思い出した。
「さすがに、こいつは食えそうもねえだよなあ」と、彼は大蛇の死骸を眺め、苦笑した。
しばらくすると、八神破の疲労が薄れてきた。
李凱永は立ち上がり、注意深く谷を見回した。もはや、谷川に沿って歩くのは、苦行に近かった。足元は泥でぬかるんでいたし、流されてきた大小の岩が累々と連なっていたからである。それに、谷底は見通しが悪い。
起伏があっても、尾根伝いに進むのが賢明と思われた。
彼は、手ごろな流木の枝を斬って杖代わりにし、砂岩の急斜面を登り始めた。尾根に出たところで、背負い袋から竹の水筒を取り出し、咽喉を潤した。木の実も幾つか口に放り込んだ。見下ろすと、大蛇の大きさが改めて感じられた。ほとんど、伝説の龍かと思えるほどの巨大さである。
その両眼を貫いている槍を見た時、回収しておけばよかったなと思った。まだ、引き返せば回収できる距離なので、槍を捨てるには惜しい気がしたのである。しかし、すぐに諦めた。死骸は死後硬直し始めているはずであり、あれだけ深く突き刺さっている以上、抜くのは人間の力では無理だろう。
李凱永は視線を薄暗い感じのする渓谷の奥に向けた。
何か点のようなものが動いて見えた。
「あいやあ…」と声を漏らし、今日は『あいやあ』の多い日だと思った。彼は、反射的に近くの岩陰に身を隠し、接近するものに目を凝らした。
それは、鳥のようであった。しかも大きい。巨神プロメテウスのところにいた大鷲ほどの大きさであろうか。色は黒。それが、渓谷の両側の崖の高さを滑るように飛行し、見る見る近づいてくる。人面鳥のようなぎくしゃくとした飛び方ではなく、猛禽のような洗練された感じがあった。
鳥のようなものは、大蛇の死骸のところまでくると、その上を二度ほど旋回してから、大きく羽ばたいたかと思うと、李凱永の方向に向きを変えた。互いの視線が合った。それは、あっという間に尾根の高さに昇り、五メートルほど離れた岩の上に立った。
殺気はない。
李凱永は、それを油断なく見据えてまま岩陰から進み出た。右手は懐に入れたままである。
その鳥は奇妙な姿をしていた。頭と翼と前足は鷲によく似ている。胴と後足はライオンのような形である。大きさは馬ほどもあろうか。全身、烏のような黒色のグリポンである。（註十一Ａ）もっとも、李凱永自身はグリポンという名を知らなかったが。
「おまえが、リュカイオンか？」と、甲高い声で人語を発した。
「んだ。…おめえは？」
「偉大なる御方の命によりおまえを迎えに来た」
「へええ、偉大なる御方…って呼ばれているだか。それが、おらを迎えに？」
ふんっと、黒いグリポンは鼻から息を吐いた。
「おまえが呆気なくピュートーン（註十一Ｂ）を倒してしまったのをご覧になり、我ら眷属の手に掛かって果てるのは惜しいとのお言葉である」と、視線を大蛇の死骸に向けた。「いかに、おまえが大地の蛇を倒したとはいえ、所詮は多勢に無勢、まして偉大なる御方の軍勢を相手に生き延びられる訳があるまい」
「へっへっへ。…かも知れねえだなあ」
「…！我らと戦って生き延びられるとでも思っているのか？」
「ねえだあよ」
李凱永は、にんまりとした。
グリポンの小さな脳は、彼の言葉と態度に混乱したようだった。目を白黒させ、沈黙したままじっと考え込んでしまった。人語を発する者もいるものの、怪物たちの知能はさほど高くはないらしい。
そのうちに、グリポンは我に返った。
「そ、そうだった。ど、どこまで話したか？」
「おめえの主人が、おらを迎えによこしたってとこだあよ」
「あ、ああ、そうだった。偉大なる御方は、おまえがピュートーンを倒したのをご覧になり…」
李凱永は口元を緩めながら、話が堂々巡りしそうなので、その先を遮って言った。
「で…。おらはどうすればいいだ？」
「え？…あ、ああ」と、グリポンは目をぱちくりした。そして、その先の口上を思い出すと、ますます甲高い声で言った。「リュカイオンよ。わ、我が背に乗るがよい。我が翼が稲妻のように駈け、たちまち偉大なる御方のご面前に連れて行こうぞ」
李凱永は、ぽりぽりと頭を掻いた。最近、水浴さえもしていないので、頭が痒い。
「それじゃあ。まあ、せっかくのご好意だから、甘えさせてもらうだあよ」と言いながら、ひょいとグリポンの背に飛び乗った。その動作が余りにも不意を突いたため、怪物はびっくりしたようだったが、やがて大きな翼をいっぱいに広げて、激しい風を巻き起こした。
李凱永を乗せたグリポンは、自慢するだけあって、素晴らしい速さで渓谷を遡って行った。飛行速度は時速百キロを超えていたかもしれない。強い向かい風により息が苦しい。さらに、空気が冷たいので急速に身体が冷えて、四肢がぶるぶる震え出した。
荒れ果てた風景が強風に吹き流されるように後方に流れていく。あちらこちらに奇怪な巨岩が目立つようになった。左右の崖の間隔が次第に狭くなってくる。
前方の視界も雲が垂れてきたためか霧がかかってきた。
やがて、渓谷の一角が大きく崩れている来た。そこを越えると、両側の断崖が急に狭くなる。今や五十メートルほどの距離しかない。時々、鋸の刃のように曲がっている個所があり、すり抜けるときにはジェットコースターに乗っている気分になった。視界が悪くなっているので、岩や曲がり角が急に現れてくるように見えるのである。
沢に流れる水の音からすると、かなりの急勾配で上っているに違いない。
グリポンは、無数の岩壁や奇岩を掠めるようにして、飛行を続けた。
不意に、飛行速度が急に緩やかになり、ぱっと視界が広がった。
グリポンは、地面から二メートルほどに高度を落とし、ゆっくりとした滑空に移った。高度を落としたせいか、霧が薄れて、見通しが良くなった。
そこは、直径三百メートルほどの円形の平らな場所であった。地面は石と砂で覆われている。ところどころに雑草が生えているだけで、緑らしい緑はない。中央には直径百メートルほどの丸い池があった。色はどんよりとした暗緑色である。そこが渓谷の水源らしく、一筋の細い小川が流れ出している。
頭上百メートルほどのところでは、暗く厚い雲が池の真上を中心にして不気味に渦を巻いている。あの海の底での忌まわしい記憶が蘇った。
周囲はぐるりと灰色の絶壁に囲まれており、火山の噴火口か隕石衝突後のクレーター跡のような地形であった。その岩壁をよく見ると、街そのものであった。岩壁を削って、通路、階段、住居の入り口、窓などがびっしりと密集している。おそらく千人以上の人々が暮らしていたと思えるが、今は人の気配は全くない。ところどころに真新しい破壊の跡のような穴が空いている。そのような穴の数は二十箇所以上にもなるだろうか。
グリポンは緩やかな滑空を続け、谷の一番奥の絶壁の前でふわりと着地した。以前、そこには断崖を登るためのジグザグの道路が掘り抜いてあったらしい。その一角が大きく崩れており、幅十メートルほどの亀裂がぽっかりと口を開けていた。
「降りろ」と、グリポンが甲高い声で言った。
李凱永は、その背からひょいと飛び降り、震える身体をさすり、怪訝そうに辺りを見回した。かすかに硫黄の臭いが漂っている。どうやら裂け目の中からである。
グリポンが、中に入れとばかりに、くちばしで示した。
突然、背後で、ずずーん！と地響きがした。
驚いて振り返ってみると、街の一区画が崩れ、もうもうと土煙を上げていた。その中から、身の丈十メートルはありそうな巨人がぬうっと這い出てきた。全身赤茶色のぬっぺりした皮膚だが、そこに百個近い目が浮き出ている。巨人はのろのろと池に向かい、頭から水面に突っ込んだ。そのまま、ものすごい勢いで水を飲んでいる。
崖の中から出てきたのか？と、李凱永は自問した。じゃ、どうやって、あの中に入ったのだろう？あの巨体で？…そういえば、他にも崩れている箇所があるが、そこから何かが出てきたという跡なのだろうか？そして、まだ何かが息をひそめているのだろうか？
黒い羽毛を繕いながらグリポンが言った。
「百目の奴め、やっと目覚めたか」（註十一Ｃ）
「目覚めた…って？」
「我らは、血と肉と大地の精を元に、偉大なる御方によって新たな生命が与えられ目覚めるのだ」
「？？？」
「人間には分からぬことだ」
「…」
「そら、偉大なる御方がお待ち兼ねであるぞ」と、黒いグリポンが促した。「ここからは一本道だ。その先に、おまえの求めるものが見つかるであろうよ」
李凱永は、断崖に開けられた無数の穴に目を凝らしていたが、
「ま、そっちの方を片付ける方が先だなあ」と言うと、踵を返した。
裂け目の中は真っ暗ではなかった。あちらこちらの岩の突端に青白い鬼火のような炎がぼうっと浮かんでいて、周囲を照らしてくれていた。炎の大きさは五センチくらいのものから一メートル近いものまで様々であった。それらが、十メートルおきくらいに光っている。近づいても輻射熱が感じられなかったので、炎自体には熱はないらしい。
弱い光であったが、凹凸の激しい足元を見るには十分の明るさであった。
進むにつれて、空気の温度が上がってきた。外気は五度くらいなのに、二十度くらいの暖かさである。次第に、硫黄の臭いが強くなってくる。否、臭いだけではない、異様な圧迫感が奥から伝わってくる。
李凱永は、懐から飛蹄代わりの小石を左右の手に二個づつ握り隠した。手が僅かに震えている。背筋から冷たい汗が伝い落ちてくる。腰には青銅の剣があるが、こんなナマクラでは気休めにもならない。この先にいる相手は人間ではない。間違いなく、今まで戦ってきた化け物たちとも桁違いの強さだろう。今度こそ、本当に命を賭けた戦いである。
しっかりするだ、李凱永！と、彼は自分を叱咤した。
起伏と曲がりに富んだトンネルを百メートルほど行くと、突然、ぽっかりと開いたドーム状の空間に出た。高さはおよそ十メートル、奥行きが五、六十メートルもあろうか。中央が舞台のように一段高くなっている。舞台は、高さ一メートルほど、広さは二十メートル四方もあろうか。舞台の中心には、青白い鬼火をまといつかせた直径一メートルほどの水晶球が、大理石の台座の上に据え付けられていた。その不気味に揺らめく光が、ドーム全体をうっすらと照らし出していた。
李凱永の視線は、水晶球の向こうに釘付けになった。青い光の向こう側なので、よく見えないが、そこに何か大きい生き物がいるのである。そこから凄まじい殺気が放射されている。余りにも強い気なので、空気が重い粘性を帯びているように感じられる。手の震えは、まだ止まらない。
李凱永は、ゆっくりと回り込みながら、舞台に近づいて行った。
角度が徐々に変わり、生き物の全貌が見えてきた。
それは黒い竜であった。中国的な竜ではなく、むしろ四足の恐竜に近いであろう。体長は十五メートルほどであろうか。それが舞台に寝そべったまま、首をもたげ、獰猛そうな顔をこちらに向けている。けれども、恐ろしいまでの殺気の源は竜ではなかった。竜の足と腹を椅子代わりにして、悠然と座っている者がいる。
銀の髪をさらりと腰まで流した美女である。その髪の不思議な透明感は、まさにアルテミス女神であった。ただ、雰囲気はまるで違っていた。その神々しいばかりの輝きは失われ、まがまがしく燃え上がる恐ろしい妖気に変わっている。目はうつろで底知れない闇に覆われていた。女神は竜の皮膚のような黒い胸鎧を身に付け、見覚えのある黒い剣を膝の上に置いていた。
李凱永は、一つ二つと深呼吸すると、ひょいと跳躍し、舞台の上に立った。手の震えがぴたりとおさまった。ちらりと水晶球を見ると、何の目的か分からないが、鬼火をまといながら、ゆっくりと回転している。
アルテミス女神は竜の腹から無造作に立ち上がり、李凱永に向かい合った。無表情に彼を見つめたまま、黒い剣を上げ、刃筋を舌でぺろりと舐めた。
「…久しぶりよの」と、抑揚のない声がドームに響き渡った。しわがれ気味であるが、確かに女神の声である。「アマゾンで立ち合うた以来じゃな」
「そういうことも、あっただなあ」
「あの時は、この小娘の邪魔が入ったが、今日は、誰も助けはこぬぞ」
「そんなものは、いらねえだ」と、李凱永は素っ気なく言った。
「ほう、こやつのために死ぬ気らしいのう。となれば、余の臣下になれと言うたとて、詮なきことであろうな。あの大蛇ピュートーンを倒した腕は惜しいが…」
「…」
李凱永は真っ直ぐに見返しただけであった。
女神の身体から噴き上がる妖気が増大し始めた。
「そうか、見上げた心意気じゃ。さぞや、アルテミスも本望であろう」と、彼女の顔が憎悪に歪んだ。「生まれて初めて惚れた男を、自らの手で殺せるのじゃからな」
「おらも…」と、李凱永は呟くように低い声で言った。「…おらも、惚れてるですだあよ。…だから…だから、おめえは絶対許せねえだ」
「許せなければ、どうする？」
「ぶち壊す」
「慮外者め！」
女神の妖気が爆発し、すさまじい重圧をともなった音の津波が押し寄せた。
李凱永の身体がびくんと硬直したのを見て、女神はにたりと笑った。彼女は、ゆらりゆらりと揺れながら男の前に近づいた。
「ふん、他愛ないものよ。こんな子供だましの術にかかるとはのう」
李凱永の身体がかすかに震えている。しかし、金縛りで口をきくことも出来ないらしい。
女神はうつろな目を細めた。
「アルテミスに免じて、すぐには死なせぬ。生きたまま、一寸刻みに切り刻んでくれよう。…まずは右の目でもくりぬいてみせようか」
黒い剣がすっと上がり、李凱永の右目の前でぴたりと止まった。だが、死が迫っているというのに、その目は敗北者のそれではなかった。
「？」と、女神の視線が李凱永の右手を捉えた。そこから血がぽたりぽたりと滴り落ちている。
李凱永の目がかっと見開いた。
「ヤッ！」という気合とともに、その姿が一瞬の暴風と化した。ぱぱぱんっ！という連続した打撃音。女神の身体もふっと流れて消えた。
李凱永は荒く息をしながら、背後を振り返った。五メートルほどのところに、銀髪の女神が何事もなかったかのように立っている。
女神の額には飛蹄による小さな傷があり、そこから血がにじんでいた。唇からも、血が一筋流れ出している。暗い妖気が膨れ上がり、炎のように天井まで噴き上がった。
「へっへっへ。やっぱ、きいてねえだか」
女神の舌がぺろりと唇の血を舐めた。
「どうやら、そのほうを甘く見すぎていたようじゃ」
「おらもだ」
李凱永は水と食料の入った背負い袋を舞台下に投げ捨てた。
「口の減らぬ小僧よ」
「あいやあ。怒らせちまっただか…」と言いながら、李凱永は腰の剣を引き抜いた。
アルテミス女神が黒い剣を電光のように振るった。同時に、目に見えぬ衝撃波が走った。
李凱永は身を急沈させながら、舜意功に入った。時間の進行が亀の歩みのようになり、色と音が失われた。一条の刃となった衝撃波が空間を歪めながらすさまじい速さで走ってくる。その後ろからさらに別の衝撃波が続いている。
最初の衝撃波は、沈みゆく彼の頭を掠めて通過した。次の衝撃波が縦に舞台を切り裂きながら迫る。それを横に飛んで辛うじて避ける。二つの衝撃波は黒竜をバラバラの肉塊に変えて跳ね飛し、岩壁に激突した。もうもうたる砂煙が起こる。
李凱永の背後から殺気が射した。女神が一瞬のうちに出現し、黒い剣を振り下ろした。李凱永が旋風と化して消え、女神の足を蹴り払った。彼女が倒れながら宙に飛んだ。その姿もふっと消える。
舞台の上で二筋の暴風が交錯し、火花が散る。彼らの姿が幻影のように現れては消えた。
不意に、ぱあん！と弾けるような大音がしたかと思うと、暴風が消え、二人は再び五メートルほどの距離で向かい合った。
「はあはあはあ…」と、李凱永は苦しそうに肩で息をしていた。背や肩に幾つかの刀傷が走り、衣を血に染めている。手にしている剣は、刃の半ばから切り飛ばされていた。
「これまでのようじゃな…」と、女神が言いかけ、顔を歪めた。黒い胸鎧が砕けて落ち、口から血が溢れて落ちた。
「くぼっ…」
「はあはあはあ…。お互い様…みてえだな」
李凱永の鋭い目が、女神の僅かな変化を捉えた。彼女の目から一筋の涙が頬を伝っている。そう言えば、彼女の攻撃のタイミングが少し外れてきている。あの凄まじい攻撃を受けながら、致命傷を免れているのは、彼の技量と運だけではなさそうだった。もしかしたら…ダメージを与える度に、黒い剣の支配力が弱まり、アルテミス女神本来の意識が強くなるのかも知れない。
希望が少し見えたような気がした。体力の限界は、とうに越えているが、もう一度だけ耐えられればいい。
李凱永は、折れた剣を捨てると、にこっと笑みを浮かべ、
「アルテミス様、もう、ちょっくら我慢してくれろ」と言った。
今度は、李凱永から仕掛けた。
高速の陣風と化して女神に向かう。黒い剣が陣風を切り裂いたかと思った瞬間、それが女神の腕に巻きつき、ばきっという音を立てた。
女神の身体が宙に舞い、舞台の外に落下した。
李凱永は、黒い剣の刃を両掌で挟み、女神を投げ飛ばした体勢のまま、ばたりと倒れ込んだ。
銀髪の女神アルテミスは、はっと我に返った。もはや黒い剣の影響は消え、身体の中には純粋に自分の意識しかなかった。
彼女は身を起こそうとして、右の前腕が折れているのに気づいた。妙な角度に捻じ曲がっている。投げ飛ばされると同時に折られたものらしい。そのおかげで、剣の支配が弱まり、恐ろしい呪縛から解き放たれたのだろう。
そうだ…リュカイオン！
女神はふわりと風をまとって立ち上がった。舞台に目をやると、倒れている男がいる。そこから凄まじい妖気が噴き上がり始めている。
アルテミス女神の姿が掻き消え、一瞬のうちに舞台上に移動した。彼女は、黒い剣を封じようと、左手を男にかざした。全身からまばゆいばかりの銀の霊気が放射される。
次の瞬間、男がむくりと立ち上がりざま、黒い剣を薙ぎ払った。
津波のような衝撃波が女神を吹き飛ばした。
銀の光に包まれた女神は、ドームの入り口近くまで飛ばされて、ふわりと着地した。辛うじて、左手一本で衝撃波を支え受けたが、身を守るのが精一杯であった。生身の人間であれば、粉々の挽肉になり、跡形もなく飛び散っていたに違いない。
舞台の上で暗黒の霊気をまとった男が、勝ち誇った声で哄笑した。
「くっくっく。この身体も悪くないぞ！」
「リュカイオン！」と、女神は悲痛な叫びを上げた。
「ふん。無駄だ。この身体は、おまえよりよほど素直じゃ」
「…」
アルテミス女神は、傷ついた右腕をちらりと見た。オリュンポス神族の驚異的な回復力により、骨は既につながり、感覚も戻り始めている。けれども、指に麻痺が残っており、そのため早さと正確さに欠けるだろう。まして、目の前の敵は余りにも強大であった。リュカイオンの驚異的な戦闘能力と黒い剣の恐ろしい魔力が合体しているのである。完全な状態であったとしても、勝てるかどうか分からなかった。
アルテミスの左手の先がぼうっと輝き、棒状になり、さらに弧状に伸びて銀の弓が現れた。腰には矢筒が出現した。彼女の全身から強大な霊気が散っている。
男の影が不気味に揺れたかと思うと、舞台から降り、ゆっくりと近づいてくる。
銀の女神の姿が、弓を構えたままぱっと身を翻し、疾風と化してトンネルに飛び込んだ。そのまま一気に狭い通路を抜け、谷間に飛び出し、光の帯を引きながら宙空に舞い上がる。振り返りざま、銀の矢を連射する。
十本余りの細く鋭い光芒が走り、分厚い岩盤を貫いた。
岩壁が膨らんだかと思うと、耳を聾するような轟音が谷を震わせた。がらがらと岩盤が崩れ、裂け目を埋める。もうもうたる土煙が舞い上がった。
女神の眉が険しくなった。
あの忌まわしい妖気は、まったく衰えていない。そればかりか刻々と増大し続けていた。
不意に、地面の中から雷鳴のような音が轟き、無数の岩石を砕いて跳ね飛ばした。衝撃波が空間を歪めながら、女神を掠め、垂れこめた雲を切り裂いた。細かい岩石が雨あられのように降り注いでくる。続いて、もう一度轟音がして、残った岩や土砂が跳ね飛んだ。裂け目の口が、ぽっかりと開く。
そこから信じがたいほど強烈な妖気が放射されてくる。
もはや、それを止める術はなかった。
アルテミス女神は再び身を翻すと、疾風と化し、谷の出口へと向かった。岩壁の街から雲霞のように飛び出してくるハルピュイアやグリポンの群れを横目にすり抜け、引き離し、たちまち渓谷に入った。
銀の女神の目には、飛び過ぎる光景は殆ど見えなかった。何故か分からなかったが、両目からあついものがとめどもなく溢れていたのであった。
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註十一Ａ：グリポン
頭、翼、前足は鷲。胴、後足は獅子の怪物。グリフォン、グリフィンともいう。
註十一Ｂ：ピュートーン
大地（ガイア）から生まれた大蛇でデルポイに住んでいたが、アルテミス女神の双子の兄アポロン神によって射殺されたと言われている。
註十一Ｃ：百目
女神ヘラに使われていた巨人アルゴスの同類と思われる。