「銀の矢」

十二、神々

　アルテミス女神は、身も心も打ちのめされたまま飛翔を続けた。
　先ほどの悪夢のような出来事が、いつまでも脳裏でぐるぐる渦巻いていた。生まれて初めて好意を抱いた男リュカイオンが、彼女を救うために自らを犠牲にしてしまったのである。
「アルテミス様、もう、ちょっくら我慢してくれろ」という彼の最後の言葉が何度も蘇ってくる。
　その言葉の直後に、彼は躊躇なく自分の身を捨て、彼女の身代わりになったのだ。だからこそ、全ては自分自身の責任と、アルテミス女神は思いつめていた。
　あの時、アマゾンの国で剣を封じた時に、オリュンポスに直行していれば、こんなことにはならなかったのだ。そうしていれば、怪物たちの復活もなく、リュカイオンの旅も無事に終わっていたであろう。しかし、ここに至っては、もはや無事では済まされない。恐ろしい怪物たちは次々に復活し、現在の秩序に対する脅威を形成しつつあった。オリュンポス神族にとって、彼は滅ぼされるべき存在と化してしまったのである。彼女の短慮が原因で…。
　アルテミス女神は自分自身が許せなかった。
　もはや、邪気のないリュカイオンとは二度と会えないのだ。
　引き返して、あれと戦うか？という考えが何度か脳裏を掠めたが、すぐに彼女は思いとどまった。生身のリュカイオンですら彼女の矢を避けることができたのである。あの黒い剣の力が加わった今、その速さは何倍にもなり、その技にも恐ろしい魔力がともなうに違いない。
　神々の主神ゼウスですら、勝てるかどうか分からない。
　さらに、恐ろしいのは、あれが着手している邪悪な計画であった。彼女があれに支配されている時の記憶によれば、その真の意図は、この世界の秩序を破壊し、オリュンポス神族の痕跡に至るまで虚無の彼方に消し飛ばしてしまうことなのだ。そのために、次々と怪物たちを蘇らせ、強化の呪法を施し、怪物たちの軍勢を生み出しつつあり、得体の知れない呪力を凝集していたのである。
　あれを誰かが止めなければ、世にも恐ろしい災厄が解き放たれてしまうであろう。

　ふと気づくと、風景は渓谷から荒涼たる丘陵地帯に変わっていた。邪悪な呪力を帯びた雲は相変わらず頭上にある。そのため高速の飛翔が可能な高空へ抜けることが出来ない。無理に突き抜けようとすれば、呪力にとらわれ、思っても見ないところに誘導されてしまうだろう。
　アルテミス女神はあたりの風景に視線をめぐらせた。
　ここは、どこなのだろうか？と、記憶をたぐった。殆どの木が葉を落とし枯れかけているので、思い出すのに数秒かかった。地形の特徴からすると、どうやらカウカサス山脈からはるか南の丘陵地らしい。彼女の眷属ドリュアデスが何人か住んでいた森のようであり、森の守護役の名前は、確か「エレ」と言った。
　アルテミス女神は、森の異変に不吉な予感を覚えながら、降下し、中心近くに降り立った。
　やはり、様子がおかしい。あちらこちらの木が無残に引き抜かれたり、枝や幹を引き裂かれたりしている。中心にそびえていたはずの樫の大木も、幹の半ばから無残に折れていた。冷たい風が、枯れ葉を吹き散らして通り過ぎた。鳥や獣など生命の気配は全くない。
「…？」
　女神は、不審そうに眉を寄せ、四方に注意深い視線をめぐらせた。ふと、その視線が地面に落ちた。足先から伝わってくる大地の様子が、いつもと微妙に違うような気がしたのである。ほんのかすかな違いなので、気のせいかとも思ったが、念のため、彼女は片膝をつき、掌を地面に付けてみた。しばらくの間、じっと大地の声に耳を澄ませる。
　やはり妙であった。大地の息吹がいつもよりも弱い気がするのである。地下の水脈や気脈の動きも鈍い。さらに知覚を大地の奥底に広げてみた。分厚い岩盤を抜け、どろどろに溶けた大地の海へと…。そこから先が何かに邪魔されたかのようにぷつんと途切れてしまった。
　やはり…尋常ではない。
　背後から、
「…ポイベ…さま」と、折れた樫の木から弱々しい声が聞こえた。
　我に返って見ると、消えかけた虹のようなはかない影が、幹の中からにじみ出できた。霊気が余りに薄く見えるが、樫の精エレに間違いなかった。
「エレ。一体、これは…」
　樫の精はぽろぽろと涙をこぼした。
「ああ…ポイベ様。…お戻りになられた。…よかった」
「これは、どうしたことです？」
「申し訳ありません。…この森を…守り切ることができませんでした」
「他の者たちは？」
「旅立ちました。…私も…もはや…」
　樫の精の影がさらに薄くなった。
「エレ！お待ちなさい！」
「…ああ…リュカイオン様を信じてよかった。…プロメテウス様の…おっしゃった通り…」
　そこでエレの姿と声が消えた。
　プロメテウス。…プロメテウス？
　銀の女神は、険しい表情となって折れた大木を見つめた。彼女の脳裏に様々な出来事がめまぐるしく蘇った。それが少しずつ繋がり、おぼろげなと形をなしてきた。
　そもそも、リュカイオンの出現、プロメテウス探索途上での黒い剣の解放、アマゾンの出来事、彼女の不覚により剣に囚われたこと、リュカイオンにより彼女自身の救出、復活しつつある巨神族の化け物たち。大地の奥深く進行する異変。これらが、関連性のない偶然の出来事だったとは、今や信じられなかった。
　プロメテウスに会って問いたださねば…。と女神は思った。プロメテウスが全て仕組んだとも思えないが、何か重要な事実を知っているか、もしくは重要な何かに関わっているに違いない。
　次の瞬間、女神の姿が掻き消え、カウカサス山脈の方角に向かって銀の光が飛び去った。

　そのカウカサス山脈も分厚い灰色の雲に覆われ、既に夕暮れのような薄暗さになっていた。時はどれほど経過したのだろうか？雲を突き抜けて飛べば間近な距離なのに、不思議な力が働いているために、地面に張り付くように飛ぶしかない。そのために、飛翔の速度を音の速さよりも上げられないのであった。
　それでも、銀色の光は起伏の激しい山間に入り、稜線を掠めるように飛翔した。そして蜜のように濃厚な雲の中に突入した。いつの間にか、光は失せ、女神の姿に戻っている。速度は落ちているが、左手を前に出し、不思議な力で雲を切り分けるように、切り立った崖に沿って進んでいる。
　不意に、崖が終わり、踊り場のような空間に出た。広さは二十メートル四方ほど。岩壁には、物凄い力で引き千切られた巨大な鎖が四つ、だらりと垂れ下がっていた。ひび割れた岩壁から、水が湧き滴り落ちて、あちらこちらに水溜りを作っている。
　アルテミス女神は、ふわりと宙に浮かんだまま、不思議そうに断ち切れた鎖を眺めていた。巨神プロメテウスがいたはずの空間に、空虚な風が巻いて通り過ぎた。あの老人は、ここから逃げたとでもいうのだろうか？
　何故？
　近づいて鎖の断面を見ると、錆びがない。切られてから二日も経過していないだろう。
　ふと刺すような殺気がしたので、銀の女神は弓に矢をつがえながら振り返った。

　岩棚の端に、異形の女が舞い降りたのである。頭髪は無数の蛇からなり、剥き出しの目玉と猪のような牙が突き出た恐ろしく醜怪な顔をしている。背中には蝙蝠のような黄金の翼が生えており、右手の上に直径十センチほどの黒水晶の球を浮かべている。その球からは、黒い陽炎のようなものが渦を巻きながら立ち上っている。
　妖女ゴルゴーン（註十二Ａ）もしくはその姉妹であろうか。
　その醜い顔から邪悪な笑みがこぼれた。
「老いぼれには逃げられたようじゃが、思いもかけぬ獲物が飛び込んできたものじゃ」と、妖女がしわがれ声で言った。
　アルテミス女神は、弓を引き絞り、妖女に狙いを定めた。
「その方ごとき妖力が、このアルテミスに通じると思うてかっ！」
「ひっひっひっ…」
　妖女の眼球が黄色の光を帯びた。右手の水晶球が爆炎のような物凄い妖気を噴出した。
　その瞬間、銀の女神は驚きに言葉を失った。弓を持つ左手が石化し始めたのである。左手ばかりではない。左足も硬くなって動かない。感覚もなく硬い領域が徐々に右半身に拡大していく。
「我が妖力の強さを思い知ったか、小娘っ！」と、妖女が勝ち誇って高笑いした。
　銀の女神は気丈にもきっと敵を睨みつけたが、そのまま平衡感覚を失って傾き、倒れ始めた。
　弓弦が唸り、銀の光芒が走った。それは岩棚の水溜りに反射し、ゴルゴーンの左手の水晶球を貫いた。
　黒い水晶が鋭い音とともに砕け散る。妖女の魔力が急減する。
「ひいっ！」
　妖女が腰を抜かし、おののきながら後ずさった。
　アルテミス女神の石化が消え、彼女は顔を紅潮させながら、ゆっくりと立ち上がった。既に、次の矢をつがえている。
「小娘の力を、思い知るがよい！」
　妖女がぱっと背を向け、黄金の翼を開きざま、宙に身を投げ出した。
　弓弦が再び唸り、醜悪な化け物を貫いた。低い爆発音とともに、ばらばらの肉片が飛び散る。後には、薄赤い霧が残るだけであった。

　オリュンポス山は、テッサリア平原の北に聳え、古くから神々の御座所として人々の畏れと信仰を集めていた。けれども、巨大な神殿が人の手によって築かれる訳でもなく、巡礼のための道が整備されるでもなかったのは、平原からいきなりそそり立つような地形からくる荒々しい気象の変化と、毎日のように繰り返される雷電の嵐のためであったろう。
　今、一条の銀の光芒が東方から頂上に射し込んだ。
　ぴかっと閃光が走り、銀色の霊気をまとった女神が姿を現した。
　女神は、虚空に向かって叫んだ。
「我は、ゼウスとレトの娘アルテミスなり。開門！」
　すると、景色が蜃気楼のように揺れ、黄金色に輝く門扉が現れた。それがゆっくりと開くと、まばゆいばかりの光が溢れてきた。その向こうにオリュンポスの聖域が広がっている。数々の神殿やその他の優美な建築物が立ち並び、空気も芳しい匂いを帯びている。
　門の衛兵の半神が、当惑とも狼狽ともつかぬ表情のまま女神を迎えた。
「父上は、いずこに？」と、アルテミス女神が尋ねた。
「奥の御座所にて、会合を催されておわします」
「大儀」
　アルテミス女神は再び歩き始めた。門から広く緩やかな階段を昇り、幾つかの神殿を過ぎ、広場と虹の噴水の傍らを通り過ぎる。途中、数々の神々や半神と会ったが、彼らは一様に驚きの表情を浮かべ、彼女を注視したものであった。
　銀の女神は、凛と顔を上げ、脇目も振らずに歩き続けた。
　やがて、主神の御座所の前に来ていた。そこには、神々の従者や兵たちが整然と並んでいた。貝の鎧をつけた海神の衛兵、黒い甲冑の冥府の兵、黄金の楯を持つ太陽神の兵などなどである。
　アルテミスは、聳え立つ御座所を見上げると、ふうと一つため息をつき、階段を登り始めた。黄金の柱の間を抜けると、金と銀で縁取られた大扉とそこを守る大男が現れた。身の丈は女神の倍近くあろう。赤銅色の皮膚に覆われた隆々たる筋肉と、あちらこちらに残る傷跡。
　その男が、ぬうっと女神の前を塞いだ。
「扉をお開けなさい、ヘラクレス。私は、父上とお話ししなければならないことがあります」
　ヘラクレスと呼ばれた男は、愛嬌たっぷりに答えた。
「おおっと、ここから先は、如何なる者も通してはならぬと、ゼウス様の堅いお言いつけでござれば…」
「十二神の一員たるこのアルテミスでさえもですか？」
「まあ、そのようで…。ポイベ様には、ここでおとなしく待たれるのが最上かと…」
「…ならば、致し方ありませぬ」
　銀の女神の霊気がぼうっと燃え上がった。弓に矢をつがえるや、顔色一つ変えずに、ヘラクレスの胸板に照準を合わせた。
「な、何を…」と、偉丈夫が腰の剣を握り締めたが、それ以上動くことはできなかった。女神からは、彼が経験したこともないほど凄まじい殺気が放たれ、彼の身体を空間に縫い込めているかのようであった。
「さあ、道を空けなさい、ヘラクレス」
「ぐ、うう…」
　巨体の英雄の額から脂汗がにじみ、滴り落ちた。いつの間にか、人だかりが出来ており、皆、固唾を飲んで事の推移を見守っている。
　その時である。
「待てっ!」と、雷鳴のような声が辺りの空気を震わせた。「ヘラクレスよ！その親不孝な娘を通すがよい！」
　間違いなく主神ゼウスの声である。大扉が、独りでに音もなく開いていく。
　ヘラクレスは、ふうっと息をつき、女神の射線を避けると、うやうやしく片膝をついた。

　アルテミス女神は、しんと静まり返った空間に足を踏み入れた。背後で扉が閉まる気配がした。
　広間の中心には黒檀の大テーブルが置かれ、十一柱の神々が各々の席に着いていた。その十一もの神々の視線が、一斉に彼女に集まった。
　一番奥に、神々の王たるゼウスの威厳に満ちた姿があった。その顔には深いしわが幾重にも刻まれ、彼女を見つめる眼には今まで見た事もないほど厳しかった。その横に女王ヘラ女神が座り、二人の下座にポセイドンやハデス等の神々が陣取っている。
　アルテミス女神は、無表情のまま、自席に着いた。その隣には、兄の太陽神アポロンがいたが、その兄すらも無言であった。
　ゼウスは、咳払いして皆の注意を促すと、白い口髭を震わせながら彼女に尋ねた。
「アルテミスよ。…まず、そなたの弁明を聞かずばなるまいな。オリュンポスを幾月も留守にし、素姓のわからぬ男と共に反逆者プロメテウスを尋ねようとしたのは何故か？その旅の途中、そなたがアマゾンに持ち込んだ剣とは如何なる由来のものか。また、その数日後、そなたを暗黒の中に連れ去ったものは何か。そなたが、その力を破り、ここに帰還できた理由は何か。そして、そなたがいまだ我が娘であると云う証は何か。・・さあ、皆の前で証を立てるがよい」
　アルテミスは、父親に向かい敬意をこめて一礼すると、凛とした声で語り始めた。
　キタイロンの森での突然の出会いと戦いに始まり、姿を変えて、プロメテウスを訪ねる彼の旅の道連れになったなどが順を追って語られた。しかし、彼女は彼に対する感情を示唆する事実は一切語らなかった。話はやがて黒海の底に存在していた異様な空間の話に移り、巧妙に仕組まれた罠により呪いの剣を解き放ってしまったこと、アマゾンでの出来事、剣の封印、彼女自身が邪悪な意志に呑み込まれたことが、事実として述べられた。アルテミスは、ここでも言葉を選び、剣の用いた卑劣な手段については言及しなかった。
　また、邪悪の本拠となった奥谷にリュカイオンが単身で乗り込み、女神の身代わりになったことを話した。
　最後に、プロメテウスの逃亡が語られた。
　銀の女神が語り終えると、広間は静寂に包まれた。
　ゼウスはしばらく考え込んでいたが、やがて重々しい声で言った。
「あの剣については、覚えがあるぞ。確か、テューポーン（註十二Ｂ）を破ったときに、黒海に封じた魔剣じゃ。巨神族の全ての魔力をこめてあり、使いこなせるならば、その魔力は無限に近い。我らにとって余りに危険なものとなろう。故に、厳重に封印したはずだったのじゃがな。それを、おまえたちが解き放ったというのか…」
「あのテューポーンの魔剣…？」
　アルテミスも事の重大さに気づき、蒼白になった。
「そうじゃ。しかし、剣の宿が、神族ではなく人間であるならば、まだ救いがある。その魔力を十分に引き出せないが故に、我らの手で再び封印することは、難しくあるまいて」
「いいえ！」と、アルテミスが否定した。「彼を甘く見てはいけません。彼は…リュカイオンは生身の人間でありながら、私の矢をかわしたのです」
「…」
　一座がしんと静まり返った。
「その男…よほどの美男と見えますな」と、誰かが茶化して言った。
「まさに、アルテミス殿はその殿御に恋でもされているのでしょう」と、愛の女神アプロディテが追随した。
　アルテミス女神は紅潮した顔で、アプロディテ女神を睨んだ。
「それにしても、急ぐ必要がありましょう」と、海神ポセイドンが低い声で言った。「人間故に、魔力に限りがあるとはいえ、一大勢力にならぬうちに、潰しておくことが上策」
「うむ」とゼウスが応じた。「早速にも、軍を編成し、差し向けようぞ。…では、アレスを総大将とし、アポロン、ヘルメスで直ちに軍を編成し、出発すべし」
「はっ」三柱の神々がほぼ同時に答えた。
「私にも、従軍のお許しを…」と、銀の女神が訴えた。
「ならぬ」
「何故でございますか？」
「そなたは、リュカイオンとやらの人間に捉われ過ぎている。それ故に、不覚を取るかも知れぬからじゃ。故に、従軍を許すわけには参らぬ」と、ゼウス。
「リュカイオンは、己が身を犠牲にして、私を助けてくれたのです。ですから…」
「ならぬ！」
　ゼウスの太い声は厳しさを増した。
「そなたは、疲れているようじゃ。デロス島でしばらく頭でも冷やすがよい。ヘラクレス！そちが目付け役じゃ！アルテミスに同道せよっ！」
　主神はそれだけ言うと、部屋を退出した。月と森の女神は、深々と頭を下げたが、その表情には余裕ともとれる不思議な笑みが浮かんでいた。

　デロス島はエーゲ海に浮かぶ岩だらけの小さな島で、その昔、夜を司るレト女神がアポロンとアルテミスの双子の兄妹を産んだ場所でもあった。
　レト女神は、この島の守護神として、エーゲ海に臨む断崖の洞窟に居を定め、平穏無事な日々を過ごしていた。そこへ、アルテミス女神が英雄ヘラクレスに伴われて島の洞窟にやって来ると、レト女神は温かく迎え入れた。
「おやまあ、今日はそなたには珍しく、随分と逞しい従者を連れてきましたね」が、母親の第一声だった。
「はい、父上が付けてくださいました。評判では、なかなかの武辺者ですが…」
　アルテミス女神はにっこりした。
　ヘラクレスは、咳払いを一つし、よく意味の分からない親子の会話に割り込んだ。
「…それがしは、アルテミス様のお目付け役として、ゼウス様に言い付かってきたのです。従者ではござらぬ」
「ふふふ…そのほう、父上の真意が見えぬのですか？本当に謹慎させるのなら、冥王ハデスか海王ポセイドンの所に預けるでありましょう。人のよいそのほうを付けて、この母上のデロス島で頭を冷やせと仰せられたのは、皆に気づかれぬように、アポロンの援護をせよという謎かけです」
「…えっ？ま、まさか」
「父上は、私の弓の腕前をよくご存知です。リュカイオンは、その私の矢をかわしたのですから、アポロンたちだけでは苦戦するのが眼に見えています」
「アルテミス…そなたの矢をかわした者が、今、アポロンたちが戦おうという相手なのですか？」
「はい」
　レト女神が色を失った。
「ならば、そなたの力が必要でしょうね。そなたの弓がアポロンを凌駕していることは、ゼウス様とわたくししか知りませんが、相手がそれほどの化け物ならば、そなたとヘラクレスの力なくしては戦えますまい」
「…」
　ヘラクレスは、まだ親子の会話についていけないようだった。
　アルテミス女神は、にっこりしながら、剛勇無双の勇者に声をかけた。
「そのほうも、弓には相当自信があるそうな。一つ、私と勝負をしてみませぬか」
「…勝負とな？それは、どのような？」
「表に出ましょう」
　アルテミス女神は先に立って歩き始めた。その後を、合点がいかない顔の巨漢、レト女神が続いた。

　洞窟の外は、荒波に揉まれて出来たごつごつとした岩場であった。ちょうど引き潮なのか、あちらこちらに潮溜まりができている。
　月と狩猟の女神は、五十メートルほど先の亀に似た岩を指差した。高さ一メートル幅二メートルほどの黒色の岩である。
「ヘラクレス、あの岩を射てみよ」
「あれでござるか？…あんなものは、眼を瞑っていても当たりましょう」と言いながら、巨漢は強弓に矢をつがえ、筋肉隆々たる腕で引き絞り、狙いを定めた。ひゅっと弓弦が唸った。
　同時に、アルテミス女神も矢をつがえ、素早く矢を射た。銀の光芒が走り、ヘラクレスの矢を貫き、ぱあん！と砕け散った。
「…？…い、一体何を」
「ほうら、あの程度の岩でも当てるのが難しいでしょう？」と、女神が笑った。
「も、もう一度、よろしゅうござるか？」
　今度は、ヘラクレスが真顔になっている。
「何度でも、構いませんよ」
「では…」
　巨漢が矢をつがえ、矢を立て続けに射た。女神の弓も同じ数だけ唸る。ぱん！ぱん！ぱん！と、連続的に弾ける音がこだました。亀型の岩は無傷のままである。
　ヘラクレスは、蒼白の顔になって亀岩を見つめていたが、やがて大声で笑い出した。
「…ははは！ここまで力の差があれば、かえって気持ちがよろしいわい！負けじゃ、負けじゃ！それがしの負けでござる！ポイベ様は、まさしくオリュンポス随一の名手でござりまする！」
「リュカイオンが、私の矢をかわした意味を分かってくれたようですね？」
「はっ。生半可の敵でないことは、重々に…」

　アルテミス女神は、手頃な石を拾い上げ、空に向かって放り投げた。それが白い鳩に変わり、小アジアの方角に飛び去っていく。
「森や川の精に伝えるがよい。三日の内にアマゾンの都に集結するようにとの、アルテミスの命令じゃと！」

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註十二Ａ：はるか西方の死者の国に住む妖女。メデューサ、グライアイはその姉妹。

註十二Ｂ：巨神族最強の怪物。基本的には人間のような肉体だが、天にまで届くような巨大な体と、百の龍の頭を肩から生やし、腿から下は巨大な蛇だったという。一時期、ゼウスも歯が立たなかったとされる。