「銀の矢」

十三、前哨戦

　三日後、月と狩猟の女神アルテミスと稀代の英雄ヘラクレスは、アマゾンの都の南に広がる森外れに立っていた。ここは、ちょうど、丘の頂にあり、屹立する都の城壁や円筒形の塔などが遠望できる。肥沃な平野のあちらこちらには、羊の群れがあり、のんびりと草を食んでいる。ここにくる途中の風景も平和そのものだったので、災厄はまだここまで及んでいないのだろう。
　近くには、女神によって召集された木や水、風の精などが陽炎のように佇んでいた。数は百余名。その他に、騎乗のための馬やカモシカが群れて草を食んでおり、その横で猟犬たちが耳をぴんと立てたままおとなしく伏せていた。
　一人の精が、銀の女神に集結の完了を報告した。東方の領域とはほとんど連絡がつかず、予期した数の半分程度しか集まっていないとのことだった。
「大儀」
　アルテミス女神は、そう言い置くと、銀の二頭立て戦車にふわりと飛び乗った。（註十三Ａ）ヘラクレスは既に戦車の御者席に陣取っている。
　淡い姿の精霊たちが居住まいを正し、神妙に女神の言葉を待った。
「皆の者！」と、凛とした声が響き渡った。
「我らは、これより東に向かい、アポロンたちの軍勢に合流し、禍々しき者どもを殲滅する。無残にも枯れ散らされた仲間たちの仇を討つのじゃ！」
「はっ！」と、木の精たちが高く澄んだ声で応じた。風の精と水の精はさざめくように歌った。
　女神の横にいた樫の精が号令した。
「いざっ、出陣っ！」
　猟犬を従えた精たちが、風の流れるように走り出した。草原が自然に分かれて、彼女たちに道を開ける。月の女神の戦車を中心に、前後を馬や鹿に乗った精たちで固め、駆け抜けていった。

　その翌日のことになる。
　プティアの英雄ペレウスは、アマゾンの王女ペンテシレイアとともに、長蛇のように続いている難民の隊列を率い、ひたすら西を目指していた。ここまでの行程で、何度か怪物の襲撃を受けて死人を出したものの、新たな難民が加わったりして、今現在は千を少し越えるくらいの規模になっていた。ただ、安息なく続く移動のために、子供や老人たちばかりか壮年の大人たちにも疲労の色が濃い。皆、絶え間なく巻き上げられる土煙を浴び、ぼろを纏った土人形のようである。羊の群れを追い立てている犬も尾を垂れている。
　ただ救いなのは、ここ数日の間、化け物どもの襲撃がぱったりと途絶えたことであった。
「あと、どのくらいでアマゾンに入るのだ？」と、ペレウスは荷駄の上から地面を歩いているアマゾンの王女に尋ねた。
「早くて、あと二日はかかろう」と、王女は前方を見据えたまま返した。
「…このまま、何もないとよいがな」
「そうだな…」
　その言葉の終わらないうちに、激しい疾風が前方から来襲した。驚いた山羊や犬たちが鳴き騒ぐ。難民たちは、腰を抜かしたり、両手で頭を抑えて地に伏したりしていた。
　ペレウスは荷駄から飛び降りた。
　気がつけば、既に蜃気楼のようにはかなげな姿の軍勢に囲まれていた。森や水の精霊たちである。それらを率いているのは、目の前に忽然と現れた銀光の戦車らしい。
「アルテミス様じゃ」と、ペンテシレイアが小声で言い、地面に平伏した。
「えっ…」とペレウスは驚きの声を飲み込み、慌ててひざまずいた。
　難民たちも、恐れおののき次々に地面にひれ伏した。
「リュカイオン殿は、やり遂げたのじゃな…」と、ペンテシレイアがくぐもった声でひとりごちた。
　その目から一筋の涙が落ちた。ここにアルテミス女神がいるということは、リュカイオンが救出を成し遂げたということに相違ないが、リュカイオンの姿が見えないということは、彼自身の無事がかなわなかったことを意味していた。おそらく、女神の解放と引き換えに大きな代償を払わざるを得なかったに違いない。
「何だ、貴様はペレウスではないか！」
　野太い声が響いた。ペレウスはどこか聞き覚えのある声に顔を上げると、筋肉隆々たる大男が目の前に立っていた。
「おう、ヘラクレス！」
「こんなところで何をしている？」
「リュカイオンという男との約定により、これらの民をアマゾンまで送り届けるところだ」
「…リュカイオン。なるほど、ならば、話は早かろう。この辺りの土地に詳しい者がおるか？おるならば、我らと同行願いたい」
　ペンテシレイアとペレウスがほとんど同時に叫んだ。
「おう、それなら、この俺が！」
「否、わらわの方が土地勘はありまするぞ！」
　ヘラクレスは、二人の言い争いには目も向けず、長老の一人とおぼしき小男に声をかけた。
「これ、そこのご老体よ！」
「へっ…。へ、へえーい」老人は、驚きの余り、目を白黒させ、地面に頭を擦りつけた。
「一族の光栄の極みと思うがよい。アルテミス様は、これから向かわれる土地に詳しい者を求めておいでである。誰ぞ、一人、ふさわしき者を」
「そ、それならば、と、遠目のクランがよろしいかと、存じ上げ奉りまする！」
「そうか。遠目のクラン。前に出ませーい！」
　ヘラクレスが大声で呼ばわると、「はーい」と間延びした声がし、ひょろりとした男が立ち上がり進み出た。偉丈夫は、ペレウスとペンテシレイアに向き直った。
「では、そういうことだ。貴様たちは、民たちを無事に届けてやるんだぞ」
「おい、ヘラクレス、俺も連れて行ってくれ！」
「わらわもじゃ！」
「控えよっ！」と、今度は威厳のある凛とした声が響き渡った。銀色に輝く霊光に包まれたアルテミス女神が二人を見下ろしている。「そなたらとリュカイオンとの約定はどうするのだ？一度かわした約束が、そんな簡単に反故にできるものだったのか？」
「…」
　二人は女神の言葉にしゅんとして押し黙った。
　ヘラクレスは、遠目のクランを御者席の横に座らせると、神馬たちに鞭をくれた。
　蜃気楼のような軍勢は来たときと同様に風のように過ぎ去っていった。

　オリュンポス十二神の一柱であり、太陽と音楽、医術、弓術、予言など幅広い領域を司っている神といえば、アポロンである。この金髪碧眼の美丈夫は、ゼウスの血を多く継承しているらしく、色事においても噂が絶えることはない。彼は、金色の眉を寄せ、浮かぬ顔で前方の荒野を注視していた。全身を黄金の鎧で覆っている。女ならば、思わずため息を漏らしそうな図であろう。
　ここは、アマゾンの国境から南東に千キロほど離れた荒野である。いわゆる岩砂漠というのであろうか。砂地はほとんどなく、一面にごつごつした岩石に覆われ、樹木はまばらである。このような地形では馬で引く戦車は戦いの役には全く立たないであろう。
　暗雲が垂れ込めているので、夕暮れのような暗さである。あちらこちらで垂れた雲がゆっくりと流れながら地面を舐め、雨が降っているのか霞んで見える。この暗さと霞のせいで、視界は五百メートルくらいしかない。
　アポロン神は自軍の陣を見渡した。ちょうど彼の弓隊は小高い丘陵の尾根に陣取り、長槍の重装歩兵を中心とした軍神アレスの隊と短槍の軽装歩兵を中心としたヘルメス神の隊は、その前方の中腹に布陣していた。アレス隊とヘルメス隊は、気負っているのだろうか、林立する槍の穂先がざわざわと落ち着かないようだ。
　物見の報告では、数千もの化け物の大群がこちらに向かっているとのことだが、まだ敵の先鋒すら視界に入ってこない。
　アポロンは、足元の小石を幾つか拾い上げ、占うために地面に転がしてみた。しかし、予言を司る神とはいえ、出た卦を読み取ることはできなかった。吉なのか不吉なのかさえもわからなかった。

「敵だっ！」と、誰かが叫んだ。
　見ると、雨と霞を切り分けるように、醜怪な化け物の群れが湧いて出てきた。地には、人狼、一つ目巨人のキュクロプス、人面獅子胴のスピンクス、半人半蛇の怪物、ピュートーンのような巨大な蛇などがそれぞれに奇怪な声を発しながら進んでくる。空には、ハルピュイアやグリポンが蝿のように飛び回っている。
　それは無秩序に混ざり合いながら、統率をとるわけでもなく我先にと向かってきた。
　アレス隊やヘルメス隊も、負けずにときの声を張り上げた。槍が敵に向かって穂先を下げた。

「構えっ！」と、アポロン神は右手を上げながら、配下の弓兵に声をかけた。それが次々と復唱され、弓弦が引き絞られていく。頃合いを見計らって、アポロンは右手を振り下ろしながら、
「撃てっ！」と叫んだ。一斉に弓弦が跳ね、千もの矢の雨が弧を描いて敵軍に吸い込まれていった。
　何十体もの化け物たちが全身針鼠のようになり、ばたばたと倒れていく。けれども、敵はひるむことなく、むしろ凶暴さを増したかのような咆哮を上げた。

　狼を中心とする化け物の群れが、前線のアレス隊とヘルメス隊に突っ込んだ。真っ赤な血煙が噴きあがる。敵味方のどちらの血なのかはわからない。

　ドスンッ！という音が間近でした。見ると、岩が石つぶてのように弧を描いて飛来し、前線を越え、アポロンの陣にまで次々と着弾している。一つ目のキュクロプスどもが岩を拾い上げ、力任せにぶん投げているのである。
　ハルピュイアとグリポンが、岩弾の援護を受け、アポロン軍めがけて降下してきた。その数、二百近くはいるだろうか。
「ハルピュイアとグリポンを叩き落とせっ！」とアポロンの指示が飛ぶ。
「おおっ！」
　弓弦が連続的に響いたかと思うと、千の矢が塊となって、飛来する怪鳥どもを貫いた。
「次っ！一つ目どもを狙え！」と、今度はアポロン神自ら弓を引き絞った。
「撃てっ！」
　再び弓弦が唸りを上げる。
　アポロンの放った矢は黄金の輝線となり、虚空を一瞬で横切り、一つ目の巨人を貫いた。赤い爆発が起こり、巨人が粉々になって吹き飛んだ。続いて、矢の塊が、巨人たちに降り注いだ。

　ヘルメス神は、そもそもオリュンポス十二神の中で、最も狡猾で話術に長けた男であった。同時に、そのすばやい立ち回りは文字通りの神出鬼没を地で行くために盗賊の神としても知られていた。
　そのヘルメスを頭にいただいた部隊も軽装だがすばやい立ち回りでよく戦っていた。狼の群れと蛇の類の怪物どもが押し寄せて、岩の斜面を這い上がってきているのに対し、人狼に対してはほぼ一対一で、大きな敵に対しては蟻が獲物に群がるように大人数で立ち向かっている。
　互いの咆哮や怒号で、天地そのものが震動しているかのような錯覚に陥るほどであった。
　容易には勝てそうもない。と、ヘルメス神は思った。化け物たちは、見かけ上強引に押してくるように見えるが、意外に統率が取れているように思えるのである。
　ヘルメス神は自分に向かってきた人狼の咽喉を短槍で貫きざま、
「一匹たりとも抜かせるな！」と叫んだ。

　戦神アレスは、神々の王ゼウスと女王ヘラの嫡子であった。しかし、戦神とはいわれるものの知性を伴った戦いには強くない。むしろ、無鉄砲な凶暴さが彼の本質であろう。要するに、何も考えていないのだ。従って、堂々たる嫡子ではあっても、オリュンポス神族の中でも人望があるという訳ではなかった。
　今、アレスはぶんぶんと長鉾を振り回し、狼や蛇どもを切り裂き突き刺し、その返り血を浴びながら猛々しい歓喜を感じていた。彼は勝ち負けよりも暴力のはけ口としての戦いが大好きであった。相手は何でもよかった。
「うおおおおおおおおおっ！」と吠えながら、戦神アレスが何十回目の獲物の首を刎ねた時、敵の群れが向きを変え退却するような兆候が現れた。敵の退却に応じて、さらなる打撃を与えれば、大崩れになるであろう。勝利をものにし、手柄を独り占めする絶好の機会に思えた。
　彼は長鉾を高々と掲げ、
「者ども、我に続けえっ！」と叫びざま、化け物のうようよいる真っ只中に突っ込んでいった。アレス隊の兵たちも楔形陣形を取って続く。
　すると、正面の敵が何か恐怖に駆られたようにさささーっと左右に分かれた。拍子抜けしたアレス隊がその勢いのまま突出する。

　アレス神はその様子を見て、敵の罠かと思った。あるいは、アレス隊の勢いに怖気づいたのか。しかし、そんな雰囲気ではなかった。敵の群れは正面を空けただけで、アレス隊を包囲する動きは見られなかった。
「…？」
　アレス隊の兵たちも何か様子がおかしいと感じ、それ以上の突撃をやめた。

　その時である。
　敵の正面から巨大なグリポンに騎乗した黒甲冑の男が悠然と現れた。黒く禍々しい妖気を全身から放射し、それが竜巻のように渦巻きながら天に立ち昇っている。
　戦場の空気がびりびりと張り詰めた。敵も味方もその重圧に沈黙し、しんと静まり返った。
　その圧倒的な妖気は、敵の総大将のものに間違いない。
　配下の兵たちが、槍を敵に向けたまま、石のように固まっている。
「ちっ！びびっちまっているか」と、アレス神は舌打ちした。

　その男が黒い剣を鋭く振ると、妖気が爆発したように見えた。空気が異様に歪み、その歪みが急速に広がりながら押し寄せてきた。
「者ども、伏せろ！」
　アレス神が叫ぶと同時に、津波のような衝撃波が到達した。
　兵たちを血煙とともに吹き飛ばして、衝撃波が通過した。首や手足を飛ばされた者たちが、ばらばらっと降ってきた。およそ五十人余りが斬り飛ばされたろうか。
「うぬうっ！」
　アレス神の顔が怒りで真っ赤になった。
「や、やろう！なめたマネしやがって！ううううぉーっ！」と吼える。
　アレスの身体が膨らんだかに見えた。否、実際に大きくなっているのだ。全身の筋が浮き上がり見る見る膨らんでいく。それにつれて身に着けている甲冑が張り裂け、地面に落ちた。やがて、見上げるような大きさになった。腕は丸太のように太く、血管の筋がぴくぴく波打っている。全身を鋼のような筋肉で武装した大男である。身に着けているのはぼろぼろになった下帯だけで、小太刀のように小さく見える鉾を右手一本で携えている。
　黒甲冑の男が、ふわりとグリポンの背から飛び降りた。
　アレス神が、長鉾をびゅんびゅんと鳴らしながら、敵に向かって突進した。
　黒甲冑の男がふっと消えたように見えた。
　アレス神の身体に巻きつくようにぱんと衝撃波が散った。白い煙の筋が広がる。アレスの太い腕が肘から切断され、前腕が長鉾を握ったままくるくる回って地面に落ちた。
　白煙を薄く引きながら、黒甲冑の男が平然と立っている。
「う、ううぬうっ！」と、アレス神が右肘を押さえてうずくまった。
「ふん、オリュンポスには見掛け倒しか卑怯者しかおらぬようだ」と、低い声が嘲笑した。と、その手が震えたかと思うと、幾つかの飛蹄が飛んだ。
「ぎゃっ！」
　いつの間に忍び寄ったのであろうか。左目を押さえたヘルメス神が朧（おぼろ）のように現れ、慌てて飛び下がった。押さえた指の間からどくどくと赤い血があふれ出している。
「お、おのれ、何故、分かった？」
「姿は消せても、殺気は絶てぬものよ」
「く…」
　黒甲冑の男は身体の向きを変えずに黒い剣を無造作に振り回した。ぱんぱんぱんという音がして、三本の輝線が剣に切り裂かれて散った。男は、アポロン隊の方を睨みつけた。
「まだ、愚か者がいるらしい…」
　そして、再びグリポンに飛び乗り、今度はアポロンの陣を目指した。

「アレスっ！アポロンには悪いが、ここは逃げるぞっ！」と、ヘルメスは元の大きさに戻っているアレスに言った。
「腕が…腕がつながらねえ…」と、アレス神は切断された腕をつけようとし、うろたえて言った。
　オリュンポス神族の強力な治癒力が及ばないらしい。
　ヘルメスは、
「くそっ」と悪態をつき、「とにかく、逃げるぞ」とはき捨てた。

　敵の化け物の群れが咆哮し、再び激しい戦闘が再開された。しかし、オリュンポスの軍勢は既に戦う気力を失っており、反撃する代わりに退き鐘があわただしく打ち鳴らされた。