「銀の矢」

　十五、奈落の使い

　広漠たる丘陵から海岸までの狭い平野は、奇怪な軍勢によって埋め尽くされていた。その数はおよそ一万近くはあるだろう。
　たった今まで戦いが行われていたらしく、ぎらぎらした殺気に煽られた興奮が、泡立つような騷めきを残している。ハルピュイアたちは。耳障りな声で喚き散らしながら、せわしなく飛び回っていた。鷲の頭と獅子の胴を持つグリポンたちも、翼を休めてはいたが時々殺気立った唸り声を発して、海の方角をにらみつけていた。醜怪なキュクロプスや人狼、それに爬虫類的な怪物の群れも、まだ流血に物足らぬ様子でもぞもぞと動き回っていた。
　頭上を覆っている厚い黒雲でさえ、ごろごろと低い雷鳴を響き渡らせている。
　海岸は所々血に染まり、黒いしみを作っていた。その血を洗っている波しぶきでさえも血の臭いを含んでいた。死体は見当たらなかった。殆どが海に流されてしまったか、怪物どものおもちゃにされてバラバラに引きちぎられてしまったのであろう。
　いくつかの破れた甲冑や旗などの残骸のみが、波打ち際に置き捨てられている。甲冑や楯は貝殻や亀の甲で作られており、それが海神ポセイドンの軍勢のものである事を示していた。
　沖合の海は轟々と荒れている。海の底から猛り狂うような唸りが聞こえ、その唸りに共鳴して潮がぶつかり合い、激しく逆巻いている。
　化け物の軍の中心で、黒い甲冑に身を固めた男が、グリポンの背に跨がりながら、はるか沖に目をやって、薄笑いを浮かべた。
「…オリュンポスに義理立てして、とりあえず兵を動かしたということか」
　その呟きに、グリポンが相槌を打つように鳴いた。男は鷲の頭を軽く叩くと、暗い眼を波打ち際に向けた。
　海の軍勢が真剣に戦ったのではないことは明白だった。攻撃して来た軍勢も小規模だったし、余り戦わぬうちに退いてしまった。死者は出たろうが、それほど多くはあるまい。
　海神ポセイドンは自己の兵力の温存を計っているようだ。オリュンポスがテューポーンの亡霊と戦って、共に倒れてくれれば僥倖、そうでなくとも生き残った方も深傷を負い、凌駕するのはたやすいと考えているのだろう。

　ポセイドンは、ゼウスの兄にあたる神である。それ故に、オリュンポスではゼウスの下に座してはいても、心中では決して膝を曲げぬものを持っている。実際、その高い誇りに見合うだけの実力が、彼にはある。ゼウスが神々の王座についた時、彼に陸地よりも広大な海の支配権を与えてその機嫌を取らざるを得なかったのも、そんな理由からである。
　ゼウスの王権は一般に言われている程強固なものではない。むしろ微妙な力関係の上に辛ろうじて成立していると言った方が正確かも知れない。海の支配者ポセイドンと冥界の王ハデス、この二人の兄をお互いに牽制させ、力を相殺させ合うところにのみ、その権力の安定があるからである。。
　ゼウスも馬鹿ではない。その予防線として愛娘ペルセポネ（註十五Ａ）をハデスに嫁がせている。だから、このゼウスとハデスの連盟のあるうちはポセイドンもおいそれと反旗を翻す事は出来ないのだ。心の中はどうであれ、二人ともゼウスの王権を支持する立場を取らざるを得ない。少なくとも今のところは。

　グエッ！グエッ！というグリポンの鳴き声が、男の幻想をかき乱した。
　ハルピュイアの群れが、何かに興奮し鋭い叫び声を発した。その耳障りな叫びが野にこだますると、キュクロプスを始めとする怪物たちの軍勢も一斉に騷めき出した。
　男と言うよりも、その身体を支配している精神と言うべきであろう、その宿主も、今や何かの前兆を感じて油断のない知覚の網を張り巡らせた。
　得体の知れぬ何かが近づいている。そんな予感が横切った。男は、空の一点を底知れない憎悪をこめてにらみつけた。
　そこに、陽炎のような歪みがあった。

　次の瞬間、歪みの中心から目も眩むような閃光が現れた。余りにも強烈な光に、怪物たちも目を焼かれ身悶えした。叫喚が辺りの空気を激しくたぎらせる。
　閃光がおさまった。代わって、虹色に輝く光の柱が閃光の中心から地上に伸びていた。その柱の回りを細かい砂塵のような光の粒が取り巻いている。光の柱は一瞬にして消え、そこに雲をつくような巨体の巨神が現れた。そして、その掌には銀の髪をなびかせた女神が、信じられぬ光景を見ているかのように黒い甲冑の男を見降ろしていた。

　アルテミス女神は、はっと我に帰った．動揺の色が消え失せた。女神の手に弧状の光が現れ、銀の弓となった。
「待てっ！」プロメテウスが慌てて叫び、掌で彼女を捕らえようとしたが、間に合わなかった。
　銀の女神は、巨神の指の間をすり抜け、黒甲冑の男目がけて身を投げ出した。
　落下。風が吹き上げ、髪と衣を波立たせる。地面が急激に迫ってくる。彼女は素早く矢をつがえ、発射した。
　目にも留まらぬ銀の光が走り、男を貫いた。…否、男の立っている地面を射たのである。爆発が起こり、轟音とともに土煙が飛び散った。
　アルテミスは着地すると、二の矢をつがえた。
　男は、爆風に乗って宙を舞い、ふわりと着地した。無傷だ。そして、ゆっくりと黒い剣を引き抜いた。グリポンがけたましい叫びを発しながら羽ばたき、空へと舞い上がる。
　再び弓弦が鳴り、銀の矢がグリュポンの首根を貫いた。ぱあんという音とともに怪物が赤い霧となって飛び散った。
　アルテミス女神は三の矢をつがえた。その姿がふっと消える。黒い剣が、彼女のいた空間を切り裂いた。
　黒甲冑の男も流線となって消える。そこを銀の閃光が走り、彼方にいた数匹のハルピュイアを肉片と白煙に変えた。遅れて爆裂音が轟いた。
　銀の女神は後方に大きく飛び下がると、男の行方を目で追った。
　今度は、別の殺気が頭上から射し込んだ。振り仰ぐと、ハルピュイアとグリポンの群れが、大挙して襲いかかってくるところである。およそ数百はいるだろう。くちばしや爪や牙をむき出し、耳障りな叫びを上げながら、あっと言う間に彼女の周囲を押し包み、殺到した。
　アルテミスの姿が再び消え、直後に数本の銀の光が怪物たちを貫いた。爆発音とともにキノコ雲が立ち昇った。
　少し離れた所で、プロメテウスが大軍を相手に奮戦していた。まるで蟻が群れているように見える狼やその他の怪物たちを踏み潰し、空から襲いかかってくるグリポンたちを蠅を叩き落とすかのように無造作にやっつけている。キュクロプスをさえも一蹴している。それでも、無傷では済まないらしく、身体のあちこちから赤いものがしたたり落ちている。白い髭も朱に染まり始めている。
　ハルピュイアの群れが、彼女めがけて急降下してきた。
　衝突直前に、女神の姿が煙のように消え失せた。

　アルテミス女神は移動を終えた瞬間、思わず目を疑った。
　目の前に黒甲冑の男が立っており、目にも留まらぬ速さで斬りつけてきたのだ。とっさに弓を盾にし、身体を僅かにひねるのが精一杯だった。黒い剣が銀の弓を断ち切り、彼女の眼前の空間を切り裂いた。ほぼ同時に繰り出された男の体当たりは防ぎようがなかった。
　ドン！という重い衝撃に、女神は跳ね飛ばされ、背後の岩にぶつかった。息が止まりそうになったが、腰の短剣だけは引き抜いた。
　黒甲冑の男がとどめとばかりに突っ込んでくる。
　何かが視界をさえぎり、何が何だかわからなくなった。
　はっと気付くと、そこはプロメテウスの掌の中であった。老巨神は、敵の剣により切り裂かれた手の甲から血をしたたらせながら、アルテミスを抱え上げ、両の手の中にすっぽりと包み込んだ。そのまま踵を返し、山の方角に走り始めた。
　プロメテウスは、懸命に走った。敵の追撃は意外に少なかった。と言うよりも、見逃してくれたと言う方が近いかも知れない。狼やキュクロプスも戦うよりは道を開けてくれたという感じである。
　ただ、頭上の黒雲だけが執拗につきまとっていた。

　追撃の気配はなかった。それでも、プロメテウスの疾走はしばらく続いた。
　やがて、老巨神の足が止まった。山々を震わせていた地響きが消え、辺りがしんと静まり返った。
　プロメテウスは、四方に隅なく眼を配り、どんな小さな音にも耳を澄まして、怪し気な兆候がないかどうかを確かめた。
　今のところは、安全なようだ。
　老巨神は、ほっと安堵の息をつき、速度を落として歩き始めた。彼にとって疾走はひどくこたえたらしい。白髪も髭も、汗に濡れてぴったりと身体にまとわりついている。
　アルテミスを押し包んでいた巨大な掌も開かれ、束縛を解いた。

　アルテミスは、悄然と打ち沈んだまま、焦点の定まらぬ視線で風景を眺めていた。その双眸から涙がぽろぽろとこぼれ落ち、頬を濡らした。
　プロメテウスは、心配そうに女神を見つめた。
「怪我はないか？」
　巨神が尋ねると、銀の髪が静かに横に揺れた。
「まったく。無茶をしおって」
　深い溜息ともつかぬ声が漏れた。アルテミスは、泣き濡れた顔を上げた。
「何故、助けたのです？」
「そなたを、今死なせるわけにはゆかぬ。無駄死にとわかっていて、放っておけると思うのか」
　巨神の声は穏やかであった。
「今はじっと耐えるのじゃ。時至りて、奴が奴自身の力によって焼かれるまでは、亡びることはあり得ぬじゃろう。巨神族の憎悪と無念は、それ自身によってしか亡びぬ」
「オリュンポスが、亡びなければ、とおっしゃられるのですか？」
「…かも知れぬ。そうでないかも知れぬ。しかし、わしにとってはどうでも良いことじゃ。おそらく、そなたにとってもな」
「私は十二神です」
「ふむ。…果たして、今でもそうかのう。巨神族の秘密の力を受け継いだそなたは、既に、別の道を歩み始めているようじゃが。そなたが、望むと望まないとにかかわらずな」
　アルテミスは、力なく首を振った。
「…私には、わかりません」
「何がじゃ？」
「プロメテウス様のおっしゃることがです。一体、私に何ができるのです？リュカイオンと刺し違えることさえ出来ぬ、この私に。巨神族の秘密の力といっても、それが何か、今の私には全く分からないのです」
「それは、時が来たればわかるであろうよ。あのリュカイオンも、なすべきことは己れの心に従って決めたものじゃ。そして、我が身とそなたの自由とを交換した。それと同様に、そなたにはそなたにしか出来ぬことがある」
「それでも、私には、わかりません」と、アルテミスは、再びその言葉を口にした。
「わからぬなら、わからぬでよい。そなたは己れの心に悔いの残らぬように生きれば、それでよい。その時が至れば、運命の力がそなたを導いてくれるであろう。それまでは、決して死に急ぎしないことじゃ」
　プロメテウスは、伝えるべきことは全て伝えたとでも云うように、女神から眼を背けると沈黙した。

　不意に老巨神の足が止まった。
　アルテミスが不審そうに見上げると、彼は眉間に深い皺を寄せ険しい目つきで周囲を見回していた。白く長い髭が静電気を帯びているように、ぴんと張っている。
　何か警戒すべきことがあるらしい。
「…敵ですか？」
「おそらくはな」
　プロメテウスは、不機嫌そうに呟くと、辺りの山々や岩の群れに油断のない視線を向けた。
「…ここは、先程通ったところじゃ。あの山の形には見覚えがある。どうやら、わしらは同じところをぐるぐると一回りしてしまったようじゃ」
「足止めの呪縛でしょうか」
「うむ。だから、奴らは追手を差し向けなかったのであろう」
　プロメテウスは、女神を見降ろした。アルテミス女神は覚悟を決めた様子で、腰の短剣を握りしめて
いた。
　そなたをここで死なすわけにはいかぬ。老巨神は心の中で呟いた。その眼に悲し気な影が横切った。
　アルテミス女神は、その気配を感じて思わず身体を硬張らせた。
　巨神の指がすぼまり、女神を包み込む。もう一方の掌も、頭上から覆いかぶさってくる。
「何をなさいます！」
　女神の抗議の声が上がる。プロメテウスは、掌の中で彼女が必死にもがいているのを感じながら、済まなそうに言った。
「…そなたは生き延びねばならぬ。定められたその時まではな」
　女神はさらに抗議を続けたが、老巨人は耳を貸さなかった。代わりに、白い髭が震え、老いて乾いた唇から低い音律が漏れ始めた。その言葉の波は、こだまのように掌の回りにまとわりつきながら、空気に穏やかな熱と振動を与え、静かに掌の中へと浸透して行った。
　掌から薄い虹色の炎のようなものが立ち昇った。
　音律の最後の一片が掌に呑み込まれ、揺れていた炎が消えてしまうと、プロメテウスは掌を開いた。そこには、何の変哲もない小さな岩があるだけだった。
　老巨神は、その岩を地面に降ろし、岩の群れの中に紛れ込ませてから、満足気に頬を緩めた。他の岩との見分けは、つかなかった。彼自身さえも、位置の記憶がないならば、どれが女神の岩かわからないほどである。これなら、敵に見つかる心配はあるまい、と彼は思った。
「…さて」と、しわがれた声が溜息と一緒に漏れ出た。「いよいよ、わしの命数もこれまでと見えるな」
　プロメテウスは再び歩き始めた。静かな地響きが同調して、辺りの空気を緩やかに震わせた。まるで、重い荷物を肩から降ろしたような軽い足取りだった。
　その歩みが止まったのは、敵の軍勢に取り囲まれてしまった時だった。
　軍勢はまるで地から湧き出たように、忽然と現れ、巨人を囲んで十重二十重の包囲陣を形成した。空にはグリポンを始めとする怪鳥どもが飛びかい、耳障りな鳴き声を発している。地上では、見るもおぞましい異形の者どもが、猛々しい唸り声を上げながら、黄ばんだ涎をしたたらせている。
　プロメテウスの全身がふつふつと粟立った。白髪や髭が逆立ち、細く震える。眼は飛び出さん限りにギョロリとむき出し、軍勢を鋭くにらみ回している。その視線が、一匹のグリポンの背に止められた。
　黒い甲冑の男である。グリポンの背に跨がり、丁度老巨人の前の中空で静止させたまま、ゾッとするような眼で見つめている。グリュポンの激しい羽ばたきが、その周囲に無数の渦を作り出している。妖気が発散され、風と共に踊っている。
「あの小娘はどうしたか」と、邪悪な声が響いた。
「それを訊いてどうする？」
「…あれは、災いをなす女だ。わしの前に立ちはだかる者は、消されねばならぬ」
「…このわしもか」
「そうだ」
「このわしは、ただでは死なぬよ」
「それがどうしたと言うのだ」
「確かに、わしはここで果てることになろう。だが、その前に良いことを教えておいてやろう」
「何だ」
「その剣が、アルテミスの血に染まったならば、おまえとその呪縛は亡びることになろうぞ」
「口のへらぬ老いぼれめが」
　老巨神の顔は満足げだった。まるで、相手を挑発しているかのようでさえあった。
　黒い甲冑の男は、ゆるゆると剣を引き払った。その周囲に殺気が放たれ、炎のように燃え立った。
　どこからか、かん高い奇声が発せられた。それが戦いの合図であった。

　その荒野は一面死の世界であった。
　丘陵には低い灌木や糸杉などが茂っていたが、全てが枯木だった。どの木も赤茶化した葉をつけたまま枯死している。葉を落とす間もない程、急激な枯れ方である。中には、枝や幹を無残にへし折られている木々もあった。
　地面はからからに渇き切り、無数の地割れを作っていた。地面を覆っている草も、木々と同様に枯れ尽くしている。川は干上がり、干からびた河床に散乱している魚が干物のようになっていた。鳥や獣の姿もなく、木の精や水の精も見掛けなかった。おそらく、他の土地に避難するか、あるいは荒廃に呑まれて滅びたのか、いずれかであろう。
　その荒野の中を、一人の娘がとぼとぼと歩いていた。月と森の女神アルテミスである。けれども、オリュンポス十二神とは思えないほど、打ちひしがれて弱々しく見えた。通常ならまばゆいはずの銀色の霊光ですら薄れてかすんでいる。
　彼女は時々立ち止まり、周囲を注意深く見回し、全神経を研ぎ澄ました。
　今のところ、足止めの法などの呪縛の痕跡は見い出せなかった。しかし、このように荒廃した領域では敵地であり、油断はできなかった。どこにどのような罠が仕掛けられているのか分からない。だから、一気に飛んだりせずに、歩みはのろくても徒歩で進むしかないのだ。
　アルテミス女神の胸は締めつけられるように痛んでいた。彼女は、精たちの殆どが土地を離れないことを知っていた。それは、この場合死滅を意味していた。だから、彼女は、自分を責めたのである。彼女は、森の支配者であり、そこに棲む者全ての保護者であった。あらゆる森と精達は、彼女の友であった。それらを守り切れなかった責任は、全て自分にある、と女神は思った。
　死滅した野はどこまでも続いていた。

　二日が過ぎた。
　荒廃の程度もやや軽くなり、所々緑色の草や木が目につくようになってきた。どうやら、呪われた領域の外縁近くまで辿り着いたようである。
　どこからか、鳥の声が聞こえて来た。久し振りに聞く生命の証しに、女神は目を細めた。
　頭上には、もはや例の黒雲はない。薄雲がかかっているが、所々目の醒めるような青空がのぞいている。辺りの空気にも霊的な凶々しさは感じられない。まるで、昨日までの悪夢のような日々が嘘のようである。
　これで、仲間の精たちでも居たら申し分ない所である。残念ながら、この小さな森には精の気配はなかった。泉や木々はあるにしても、精が宿るには歴史が浅いようである。泉には神秘的な霊気が欠けていたし、木々にも年輪を感じさせてくれる老木が見当たらない。

　静かだった。
　ふと、その静かさに緊迫した気配が感じられた。鳥の声も消え、風も止まった。何かが近づいてくるような気配である。
　アルテミス女神は、手近な木の幹に身を寄せると、その木と同化した。

　今、木々の間を、異様な風体の一団が足音を忍ばせながらゆっくりと進んでいた。数はおよそ四十。皆、黒いみすぼらしい衣と頭巾により、身体と顔とを隠している。衣の背は、嫌に骨張ってみえた。おそらくその下には翼のようなものが折りたたまれているのだろう。時々、衣の裾から垣間見える足は、片方は驢馬のそれであり、もう片方は真鍮から出来ていた。頭巾から僅かにのぞいている鼻は、醜くくひしゃげており、頬には深いしわと大きなあばたがつけられていた。
　一団の指揮を取っているらしい者は、他よりも背が高く堂々としていた。背中の妙なふくらみもなく、足の形にも異常はなかった。ただ、眼の輝きの底知れぬ冷たさが、ただならぬ妖気を作り出していた。
　アルテミス女神は、彼らの正体を見究めると、変身を解いた。
　一団がぎょっとして立ち止まった。その視線が一斉に女神に向けられる。アルテミスは、恐れる様子もなく、彼らが近づくのを待った。
　皆、冥王ハデスの手の者たちである。敵ではない。背の高いのは、冥府に棲む女神ヘカテ（註十五Ｂ）、その他は配下の魔女エンプーサたち（註十五Ｃ）である。異様な姿はしていても、一応オリュンポス神族の仲間ではあった。
　
「ここで、そなたたちに会えるとは思いませんでした」
　アルテミスは、儀礼的に話しかけた。ヘカテは眉一つ動かさず、能面のような表情のまま、抑揚のない声で答えた。
「わが主、ハデスの命により、お迎えに上がりました。アルテミス様」
「伯父上が、私を？」
「はい。無事に冥府までお連れするようにと」
「ですが、私はオリュンポスに帰らねばなりません」
「その必要は、ございません」
　ヘカテは冷やかに言い切った。
「何故です？」
「これは、ゼウス様の御命令でもあるのです。オリュンポスは、あなたを反逆者としてタルタロスに幽閉することを決定し、その行使を我が主冥王ハデスに委ねました。それ故、この私がお迎えに上がった次第でございます」
　アルテミスは表情を硬くした。
「それで、そなたが私を探しに狩り出されたと云うわけですか。なるほど、人探しならば道の支配者たるそなたにしくはない」
「ご同行頂けますね？」
　ヘカテの眼が妖しく輝いた。
　アルテミスは周囲を取り巻いているエンプーサたちを一瞥した。彼女たちから発せられているとげとげしい雰囲気から、ヘカテの言葉が有無を言わせぬものであることは明らかだった。
　銀の女神は溜息をついた。
「是非もありませぬ」
　その言葉を聞くと、ヘカテの顔ににたりと笑みが浮かんだ。
　冥府の一団は、アルテミスを連れて踵を返した。

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註十五Ａ：ペルセポネ
ゼウスとデメテル（豊穣の女神、十二神の一柱）の娘。冥王ハデスに見初められ、黄泉の国に誘拐され、その女王となる。

註十五Ｂ：ヘカテ
うーーん。簡単には書けそうもない。冥界と関係付けられたのは比較的後期のようである。

註十五Ｃ：エンプーサ
ヘカテの家来。かなり恐ろしげな外観をしているらしい。