「銀の矢」

　十七、オリュンポスへの帰還

　冥府の地下牢はひんやりと冷たく、息詰まるような糞尿の臭いがしみついていた。
　カビの生えた壁には、灯りをともす穴がいくつかうがたれ、そこに青白い鬼火がぼんやりと光っていた。しかし、その弱い光では牢内を照らし出すには不充分であり、部屋の隅には陰気な暗がりが残っていた。広さは四畳半くらいであろうか。調度と言えば、中央に不釣合いな水晶の大鏡が備え付けられているだけである。
　アルテミス女神は、鏡の前で、手足を鎖でつながれ、壁にはりつけられていた。鎖は壁に埋め込まれた鉄の環へくくりつけられ、女神の四肢を大の字に引き伸ばしていた。身動きは全く取れない。
　それをニヤニヤ見ているのは、冥王ハデスと戦神アレスである。
「いいざまだぜ、アルテミス」と、野卑な顔に嘲笑を浮かべてアレスが言った。「弓を持たせりゃ敵無しの貴様も、今じゃ何も出来ないただの女ってわけだ」
「…」
　銀の女神は、二人を鋭くにらみつけた。アレス神は髭をさすった。右手がないので、左手である。眼が燐の光を映してギラギラ輝いている。
「さて、どうしてやろうか。え？」
　アレスは、アルテミスの顎に手をかけると、しゃくった。
「問題は、貴様にとって一番こたえるものは何か、だな」
　アルテミスは思わず顔をそむけた。
「あの時、お前などを助けるべきではありませんでした」
　女神が呻くように言うと、アレスはにやりとした。
「そうさ。それをしなかったのは貴様の甘さだよ」
　アレスは、からかうように女神の頬を軽く叩いた。
「もっとも、俺たちの聞きたいことに素直に答えてくれれば話は別だ。そうすれば、嫌な目にも遭わずにすむってものだ」
「…」
「プロメテウスの残したものじゃよ」と、ハデスは暗い声で言った。「あの老いぼれは、そなたに何かを伝え残したはずじゃ。例えば、あの魔剣とその呪いを滅ぼす手懸りじゃ」
「知るものですか」
　その時である。
　大鏡が虹色の光を発したかと思うと、そこに何やら映し出した。映像の焦点が合い、ぼやけていたものがはっきりとした形をとった。巨神プロメテウスと、その掌に乗っているアルテミス女神である。老巨神は、低い口調で何やら話していた。
「…奴が奴自身の力によって焼かれるまでは、亡びることはあり得ぬじゃろう。巨神族の憎悪と無念は、それ自身によってしか亡びぬ…」
　映像は、そこで途切れた。
　冥王ハデスは得意そうに言った。
「やはり、プロメテウスめ。そなたに手懸りを言い残しておったか。…して、『奴が奴自身の力によって焼かれる』とは、どういうことなのじゃ？」
「知りません」と、銀の女神は首を振った。
「知らぬはずはあるまい」
「知らぬものは知らぬのです」
　再び、大鏡が光を発した。映像の焦点が合うと、そこには老巨神が人差し指でアルテミスの額に触れ、何事かぶつぶつと呟いていた。低い声と異質な言語のようなので、何をしゃべっているのかは聞き取れなかった。
「ん？」と、戦神アレスは怪訝な顔をして、冥王ハデスを見やった。「どういうことだ？何を言っているのか、さっぱりわからんぞ」
「おそらく、アルテミスの心に秘法を直接書き込んでいるのじゃろう。まともな声になっていないので、この鏡でも再現はできぬようじゃ」
「へっへっへ」と、アレスはにんまりした。「…それだけ聞けば十分だ。やっぱり痛めつけて聞き出すしかない訳だな」
「仕方あるまいな」
　戦神はぺろりと舌嘗めずりした。
「まあ、時間はたっぷりとある。じっくりと聞かせてもらおうじゃないか」
　月と森の女神は再び首を振った。
「話すことなど何もありません。よしんばあったとしても、誰がお前などに喋るものですか」
「吐かせるさ」
　アレスは、女神の火のような視線を平然と受け流すと、左手で剣を抜き、鋭い刃にちょこんと舌をつけた。その刃越しに、悪意のこもった視線を彼女に向ける。アルテミスの顔色は、燐の光のせいかやや蒼ざめて見えた。
　アレスは、剣を女神に向け、その剣先を彼女の右頬につけた。
「こんな脅しに屈するとでも、思っているのですか」
　ようやく女神が口を開くと、アレスはにたりと唇を歪めた。
「脅しだと？まだ、自分の置かれた立場と云うものが、よくわかっとらんようだな」
　剣が動いた。すっと下に流れ、首筋や胸の上を滑るように通過し、腰帯の所でぴたりと止まる。剣に力が籠められ、剣先が小さく振れた。かすかな音がした。
　帯が切られ、だらりと垂れた。アルテミスはハッとして相手の顔を見つめた。好色そうな顔が笑っている。その顔がおぞまし気に勝ち誇っている。
「さあ、何とか言ったらどうだ？」
　やや上ずった声が訊いた。
「下衆が」
　アルテミスは、怒りをこめて相手の顔に唾を吐いた。
　アレスは、左手で頬の唾を拭うと、顔を紅潮させながら言った。
「その意気だぜ。そうでなくちゃ、面白くねぇ」
　頬がぴくりと引き攣る。アレスは剣を収めると、その手で女神の頬に平手打ちを見舞った。
　銀の髪が乱れ、女神の顔を隠した。怒りに燃える眼が、髪の間からアレスをにらみつける。
　アレスは構わずに、彼女の衣の胸元に無骨な手をかけた。指に力が籠もり、次の瞬間引き降ろした。衣が裂かれる音がやけに大きく聞こえた。
　アルテミスは思わず目をつむった。彼女の白い胸は、アレスの前にさらされていた。屈辱と怒りが、彼女の胸元まで紅潮させている。
「ほう」
　アレスは感嘆ともつかぬ声を洩らすと、顔を淫らに歪ませながら、女神の身体に手を触れた。
　アルテミスの身体に悪寒が走った。その悪寒はアレスの手が動く度に強まり、胸から下腹部へと移動した時に頂点に達した。思考が麻痺し、怒りと憎悪が取って代わった。何かわけのわからぬ衝動が、彼女を突き動かし、呪いの言葉を叫ばせた。
　青い珠が中空に出現し、目が潰れるような激しい閃光を放った。

　冥界の女王ペルセポネは、目の前で片膝をついている巨漢ヘラクレスを、呆然と眺めた。
「では。そなたは、アルテミス殿がこの冥府におられると申すか」
「御意」と、巨漢の低い声が答えた。
「しかし、それならハデスからわらわに話があるであろう」
　巨漢は、人気のない部屋を素早く見回した。人払いされてはいるが、誰が聞き耳を立てているかわからないからである。彼は声をひそませた。
「実は、オリュンポスへも、正式な報告は届いてござらぬ」
「では、何故に？」と、女王が眉根を寄せた。
「地上界では、どんなに探しても見つかりませんでした。そこで、もしやと思い、ステュクス河の渡し守をしめあげて吐かせてみましたところ、やはりアルテミス様がこちらへ連れて来られたと申しておりました」
「ふふふ、カロンも災難よの」と、女王は苦笑してから真顔に戻った。「アルテミス殿が冥府におられることは、信じましょう。それで、そなたの言いたいことは何なのです、ヘラクレス？」
「オリュンポスは今、危急存亡の時を迎えてござる。そして、アポロン様亡き後、この危機を乗り切るためには、やはりアルテミス様の力が必要というのが、皆の一致した意見でござる」
　ペルセポネは氷のような眼で、巨漢を見つめた。
「何故、ハデスに直接言わないのですか？」
「それが、今は不在とのことで、拝謁はかなわぬとのことでござります」
「…不在？わらわは、何も聞いておりませぬが」と、ペルセポネは不思議そうな顔をした。「わかりました。では、ハデスをここに呼んで確かめてみましょう」
　しかし、冥王ハデスが彼女の前に来ることはなかった。まるで、冥府から忽然と姿を消したかのように、行方がわからなくなってしまったのである。辛うじて、数人の衛兵が地下牢へと歩いていったのを目撃したのが最後であった。
　冥界の女王ペルセポネは、ここに至って何か尋常ならざる事態が起こりつつあると判断し、ヘラクレスを伴って地下牢に下りていくことを決意した。

　ヘラクレスはペルセポネとともに、地下牢の一つ一つをしらみ潰しに調べた。冥府の地下牢は数百部屋もあり、その全てを調べつくすのは非常に根気のいる仕事だった。そして、彼らが七十六番目の牢の前に立った時、ここぞという確信を覚えた。扉には錠が下ろされ、強力な呪力によって結界が張られているのである。
　ヘラクレスは、扉と錠を戦斧で無造作に叩き壊して中に入った。牢内には灯りが消えており、真っ暗であった。ヘラクレスは油断なく身構えながら、牢の中を見回した。ペルセポネとその衛兵がすぐに後に続く。衛兵の持つ松明で、明々と部屋の中が明るくなった時、彼は壁に鎖で縛りつけられた半裸の女の姿をみとめた。他には人影はおろか気配すらない。
　巨漢は、女の縛られている壁に近づいた。彼女は失神しているらしく、身動き一つしなかった。ヘラクレスの戦斧が再び風を切り、縛めの鎖を叩き切った。ペルセポネは、すばやく自らの外衣を脱いでアルテミスの身体を包んだものである。
　銀髪の女神はヘラクレスの太い腕の中に崩れ落ちた。

　アルテミス女神が意識を取り戻したのは、柔らかい寝台の上であった。眼を開けると、見覚えのあるヘラクレスの顔があった。
「気がつかれましたか」と、巨漢が心底からほっとしたように言った。アルテミスは、狐につままれたような顔をして辺りを見回した。
「ここは、どこなのです？」
「ペルセポネ様のお部屋でござる」
　見るとヘラクレスの後ろに、冥界の女王の姿がある。アルテミスは、自分がもはや鎖で壁に縛りつけられているのでも、半裸でもないことに気づいた。背に感じるものは、堅い石壁ではなく、柔らかい寝台の心地よい感触である。自由を奪う鎖はない。身体には絹の衣をまとっている。
　女神は、ヘラクレスに眼を向けた。
「そなたが、助けてくれたのですか？」
「ペルセポネ様の御陰でござる」
「ハデスやアレスはどうなりました？」
「いえ、城中探しましたが、冥王は見つかりませんでした。…ぬう、あのアレスもおったのですか。あやつめ。今、冥界全体をしらみつぶしに探しているところでござれば、いずれ網にかかりましょう」
「そうですか」
　アルテミスは、さして残念そうな様子もなくヘラクレスから目を離し、ぼんやりと天井を眺めた。
　脳裏に、アレスに凌辱されそうになった場面が鮮明に浮かび上がった。
　あの瞬間、彼女はわけのわからぬ衝動に突き動かされ、呪いの言葉を叫んだのだった。それから、恐ろしい呪力が爆発的に溢れ出し、何かが起こったのである。
　どうやら、巨神族のヨグの力が具現化したようである。さもなくば、あの様なことが起こり得るはずがない。プロメテウスは本当に彼女に呪力を受け継がせていたのだ。
　アルテミス女神は身を起こすと、ヘラクレスに命じた。
「出来るだけ早くオリュンポスに帰ります。仕度をしておきなさい」
「御意！」と、ヘラクレスは元気よく答えた。

　ここで、その後の冥界の情勢について少し触れておくことにしよう。
　冥王ハデスは、冥界の総力をあげた捜索にもかかわらず、その行方はおろか手懸り一つつかめなかった。戦神アレスも同様であった。結局、彼らは謎の失踪を遂げたと判断され、最終的には冥王の全権力はペルセポネに継承されることとなった。
　この権力の移行は、さして違和感なく行われた。ペルセポネは長い間冥界の女王として君臨していたし、兵や住民たちも彼女になついていたからであった。少数の者たちは、彼女を頑として認めなかったが、彼らは残らずタルタロスへ投げ込まれてしまった。これは、ヘラクレスの力が物を言ったものである。
　こうして、ペルセポネの権力は日々強固なものになって行ったが、対外的にはこの権力の交替は秘密のものとされた。
　これは、海の支配者ポセイドンへの牽制の意がこめられていた。もしポセイドンが、ハデスの失踪とペルセポネの継承を知ったら、これを甘く見て、来るべき一戦に日和見を取るかも知れなかったからである。即ち、漁夫の利を得ようと思えば得られる情勢だからである。
　アルテミス女神は、こうした助言をペルセポネに与える一方、冥府の兵のオリュンポス派兵をも要請した。女王は快諾し、準備が整い次第出陣させると約束した。事実、この約束は忠実に実行され、後日二千の兵がオリュンポスに差し向けられた。それ故に、ポセイドンもまた派兵せねばならぬ立場に置かれたのだった。
　銀の女神アルテミスとヘラクレスがオリュンポスに帰還したのは、こうしたごたごたが片づいてからであった。

　その夜は満月であった。その淡い光が、雪と氷に覆われたオリュンポス山の頂きを染め上げた時、奈落の深淵から銀の光芒が天に駆け上がり、荒涼とした頂きに降り立った。
　光芒は消え、銀髪の女神と巨漢が姿を現した。
　寒風が降り積もった粉雪を舞い上げている。口笛のような音が響き渡った。
　アルテミス女神は、辺りを見回して聖域の入口である岩の門を探した。しかし、それらしい岩影はどこにも見当たらなかった。どうやら、敵襲に備えて門を封印しているようだ。
　ヘラクレスがその前に進み出て、朗々と響く声で怒鳴った。
「おーい！開けて下されい！ヘラクレスでござる！アルテミス様とともに、ただいま帰参し申した！」
　その声が終わるか終わらぬうちに、目の前の空間が揺れた。それが蜃気楼のようにはかない映像を結び、門の形を浮かび上がらせた。
　女神の前で二つの岩の柱が星空を突いている。紛れもなく、聖域に通じる門である。その門から十数名の兵が現れ、アルテミスたちを出迎えた。
　兵たちを率いているのは隻眼のヘルメスである。彼は女神に会釈した。
「お待ち申しておりました」
「貴公たちの御蔭です。ヘラクレスから聞きました。貴公とアテナ殿が父上にとりなして下さったとか…。礼を言います」
　月の女神アルテミスも頭を下げた。
「あなたは、私の命の恩人ですからな。それに、アポロン殿亡き今、その代わりを務められるのはあなたしか居りますまい。それは父上もよくご存知です」
「ヘルメス。父上は、本当に私を信じて下さったのでしょうか？」
　女神がやや不安そうに尋ねると、ヘルメスはにっこりした。
「それは、父上に直接お尋ねになればよろしいでしょう」
「そうですね」
　アルテミスは余り自信なさ気だった。ヘルメスは、彼女を促して門の中に招き入れた。

　オリュンポスの聖域は相変わらず美しい景観を保っていたが、今はどことなく空虚な空気に支配されていた。
　人気が少ないからだ。と、アルテミス女神は思った。
　ヘルメスに先導されてゼウスの神殿に向かう途中、女の半神や精霊たちの姿は余りなく、目についたのはものものしく武装した兵士だけであった。アプローディテ女神やデメテル女神の神殿にも気配はなく、ひっそりと静まり返っている。
「お気づきになりましたか？」
「…人気のなさですか」
「皆、難を逃れようと、オリュンポスを離れて行ったのです。ヘラ様を始め、アプローディテ殿やデメテル殿までも…」
「何故です？オリュンポスは、そう簡単には陥ちますまいに…」
　アルテミスが不思議そうに聞くと、ヘルメスは声を沈ませた。
「それを信じられる者ばかりとは限りません。特に、良くない噂ばかりを聞かされていればね。アポロン殿が戦死されたことやその戦いのていたらくは無論のこと、ポセイドン殿の軍勢までさんざんな目にあわされたという話は、子供にいたるまで皆知っているのです。それに、オリュンポスの戦力は誰が見ても低下して来ています。その後、ポセイドン殿からは何の音沙汰もないし、ハデス殿からの援軍もいつ来るかわからぬ有り様です。現在、戦える者と言えば、私とヘラクレス、それにアテナ殿くらいのものですからね。だから、父上も出て行く者たちを止めようとはしないのです」
「冥府からは、いずれ二千の兵が派遣されて来ましょう」
　ヘルメス神は驚きの色を浮かべ、次に喜色を満面にたたえた。
「それは本当ですか」
「ペルセポネが、私に約束してくれました。ここ数日のうちにやって来る手筈になっています」
「父上も、それを聞かれたらさぞかしお喜びになられましょう」
　アルテミスは、ふと横に居るヘラクレスに尋ねた。
「ヘベ（註十七Ａ）はどうしました？やはり、ここから去ったのですか？」
「はい。まあ、それがしの女房とは言っても、ヘラ様の娘御でござる故…」
　巨漢は照れ臭そうに頭をかいた。
「それに、あれの居らぬ所の方が、かえって存分に戦えますわい」
　アルテミスは苦笑した。ヘラクレスらしい負け惜しみだと思ったからである。

　神々の王ゼウスの大神殿は、多くの半神や妖精の兵たちにより堅く守られていた。彼らを指揮しているのは、女ながら槍の名手として知られているアテナ女神であった。
　アテナとアルテミスとは大変仲の良い間柄である。二人とも、考え方や性格が似通っていたし、互いに尊敬できる美点を備えてもいたからである。それ故に、アルテミスたちがゼウスの神殿の前にやって来た時、彼女たちを目ざとく見つけて出迎えたのは、アテナ女神であった。
「お帰りなさい」と、アテナがうれしそうに言った。
「ご心配をおかけしました」
　アルテミスが申し訳なさそうに言うと、アテナはその肩にそっと手を置いた。
「さあ、参りましょう。父上が、そなたをお待ちです」
「はい」と、アルテミスは頷いた。
　ヘルメスとはそこで別れた。今度はアテナの先導で神殿に入り、黄金柱の廻廊を幾つか通り抜ける。ゼウスの居る王の間の前に来ると立ち止まり、アテナが中に向かって声をかけた。
「アルテミスが、ただいま帰参致しました」
　一瞬しんと静まり返る。やがて、中から重々しい声が響いて来た。
「アルテミスが参ったとな？」
「はい」と、アテナ女神が答える。
「通せ」
　アテナは、アルテミスに中に入るよう眼配せした。銀の女神は、ヘラクレスを連れて入室した。
　部屋の中は華美な照明もなく、ひどく殺風景であった。奥に水晶の玉座が置かれているだけの広い空間である。玉座には、体格のがっしりした老人が一人瞑目して背をもたれている。
　ゼウスである。神々の王はうっすらと目を開けた。
「アルテミスか」
「はい」
「ほう。…見違えるように霊力が増しておるな。そなたがわしを超えるというプロメテウスの予言もあながち嘘ではなかったようじゃ」
「…」
「プロメテウスから、巨神族の秘密の力を授かったのであろう？あの古きヨグの力も…」
「はい」
「しかし、そなたにはわしに取って代わろうという野心がまるでない。ふっふっふ。わらべのように何も考えておらぬ」
「…いえ、望みはあります。…ただ一つだけですが」
「何じゃ？」
「リュカイオンを取り返すことです」
「それは生易しいものではないぞ。あのテューポーンの呪力を打ち破らねばならぬからな。アポロンでさえも不覚を取ってしまったのだ。また、打ち破ったとしても、アポロンを手に掛けたのには間違いあるまい。仮に取り返したとしても、そなたにとっても辛いことになろう」
「リュカイオンは、私の身代わりになったのです。彼がいなければ、私がアポロンを手に掛け、さらに父上にまで刃を向けたことでしょう。ですから、今度は私が借りを返します。たとえ、彼と刺し違えても…」
　ゼウスはやや驚いたように娘を見直した。
「そなた、それほどまでに…。そのリュカイオンという男、よほどの男と見える。男嫌いで通っていたそなたが、そこまで思いつめるのだからな」
「…」
「じゃから、プロメテウスはそなたを選んだのであろうよ。あの老いぼれめ、最後の最後でわしに仕返しをしおったわ」
「父上」
　神々の王はヘラクレスに目を向けた。
「ヘラクレスよ。アルテミスは見ての通りの強情者だ。次の戦いでは、死ぬる覚悟のようじゃ。おまえも、アルテミスの力になってやってくれい」
「はっ」と、巨漢がかしこまった。
「アルテミス」
　ゼウスは、目を細めながら娘の名を呼んだ。
「はい」
「今から、そなたはわしの名代じゃ。万事、そなたの好きなように運ぶがよい。わしは、オリュンポスの命運をそなたに託すことにするぞ」
「はい、うれしゅうございます」
　アルテミス女神は、双眸をうるませた。

　翌日からオリュンポスに残った神々はあわただしく動き始めた。
　アルテミス女神は、自ら海神ポセイドンの許に赴き、援軍の約束を取りつけた。この交渉について
は様々な噂が飛びかったものである。援軍を渋って煮え切らない態度を取る海神に、アルテミスが威勢のよい啖呵を切ったとか。だが、実際には円満に話が進められたようである。アルテミスとポセイドンの仲は余り悪くはない。むしろ、月と海とが互いに影響を及ぼし合っているように、一目置き合っている間柄である。だから、彼女の口から冥界からの派兵の話が出た時、ポセイドンとしては面子の上でも援軍に同意しないわけにはいかなかったのである。
　一方、ヘラクレスは、アルテミスの命を受けて彼女自身の兵を召集するために下界に降り、森や草原を駆け回っていた。召集に応じたのは、木々の精霊たちばかりではなく、熊や狼、鷲や鷹などの動物たちも一緒だった。彼らは三々五々オリュンポスに集まり、最終的には二千に近い軍勢となった。
　その仕事が終わると、彼は人間であった頃の友人である各地の英雄を尋ね、オリュンポスに馳せ参ずるように口説いた。皆は一も二もなく応じ、ただちに神々の聖域へと旅立った。その中には、ペレウスやペンテシレイアを始め、ペレウスの弟のテラモン、アテナイのテセウス、それにヘラクレスの一族などが含まれていた。
　ヘルメス神は、シシリア島のエトナ火山を訪れ、そこを鍛治場にしているヘパイストス（註十七Ｂ）に剣や槍などの武器を多数発注した。ヘパイストス（註十七Ｂ）とその徒弟たちは、その注文を消化するために大車輪で働いた。エトナの山は三日三晩の間火柱を激しく噴き上げ、耳を聾する爆発音を響かせた。
　冥界の兵二千三百は、アルテミスの帰還の二日後、オリュンポスに到着した。その兵を率いているのは冥府の大判官ラダマンテュスである。彼は、ゼウスが人間の女に産ませた息子で、賢者として知られた存在であった。死して後、死者を裁く判官に任ぜられたのである。
　その三日後、海神の兵二千五百が到着した。率いるは、ポセイドンの息子トリトンであった。

　不吉な予兆がオリュンポスに現れたのは、翌日の正午を少し回った頃であった。
　その日は雲一つない快晴であった。普段なら頂きにかかる傘雲もなく、吹き抜ける風はさんさんと降り注ぐ太陽の輝きと澄み切った蒼穹の青に染まり、山頂に陣を張っている兵たちも、そののどかさに迫りつつある災厄を忘れさせるほどであった。
　山頂からの眺望は、見慣れた者にとっても目を見張るほど美しかった。正面に見るテッサリア平原は、黄金色の草の波で覆われており、その端に陣を敷いているヘルメスの軍勢は草の海に呑み込まれそうな蟻の群れのように見えた。左手には、オッサ山が聳え立ち、その向こうに青い水平線が見える。その辺りに布陣している冥界の兵は、巧みに姿を隠していて、ここからでは視認できなかった。
　北と西側は、山の峰々が見渡す限り続いていた。
　突然、オリュンポスの静かな谷間が騒然となった。谷間の木々から、鳥たちが一斉に羽ばたいたのである。百舌鳥や雀などの小鳥を始めとして、烏や梟、鷲や鷹までもが群れに混じっている。他の谷間からも鳥が飛び立ち始め、合流して黒い雲を作った。それらの鳥の発する喧騒は、嵐のようにオリュンポスを包み込んだ。
　鳥たちがオリュンポス山から逃げ出そうとしているのである。鳥だけではない。山鼠や栗鼠、兎や鹿などの獣までもが住み慣れた山を狂ったように駆け降り、南を指して行く。口から泡を吹き、甲高い声で鳴き喚きながらである。その群れが斜面を下る音は、まるで地鳴りのようであった。
　小一時間もすると、山には一匹の獣も居なくなった。アルテミスに従っていた狼や熊たちはさすがに陣を離れなかったが、それでも動揺は隠せず、落ち着かな気にきょろきょろ見回していた。
　山に再び静寂が訪れた。時々、風が谷間の枝葉をざわつかせる他は、重苦しい沈黙が山全体を支配していた。そこに居る誰もが、動物たちの避難の意味を理解し、緊張した。

----------------作者註---------------------
註十七Ａ：へべ
ゼウスとヘラの娘。青春の女神である。

註十七Ｂ：ヘパイストス
ゼウスとヘラの息子。火と鍛冶の神。