「銀の矢」

　十八、死闘

　長い夜がようやく明けようとしていた。
　静かであった。谷間を吹き渡る風もなく、山そのものがまだ眠りについているかのように静まり返っている。
　アルテミスは山頂の岩に腰をかけ、目を閉じたまま、四方に知覚の網を張りめぐらしていた。先ほどまでは完全なる静寂だったのだが、遠くの彼方で、何かが動き始めたようだった。それは余りにも弱い感覚だったが、やがて地脈が微弱に震動しているのが分かってきた。
　大地が怯えているようだ。と、アルテミス女神は思った。
　遠い遠い地の底で、何かが泣いている。あまりに遠くて、うっかりすると聞き落としてしまうほど小さい声である。その声が次第に近付いてくる。辺りが白む頃には、声の質もすすり泣きから低い唸り声に変わり、そして急激に増大した。

　突然、大地の底から雷鳴にも似た轟きが響いた。
　次の瞬間、突き上げる衝撃とともに地面が跳ね上がった。岩が揺れ動き、小石がはぜて跳び回る。山頂を覆っている雪渓が粉々に割れて斜面を雪崩れ落ちていく。あちらこちらで斜面が崩れ、大量の土砂が谷間を駆け下っていく。砂煙がもうもうと立ち昇った。
　オリュンポスの山、否、世界そのものが鳴動しているようだった。

　アルテミス女神は手にした弓をぎゅっと握りしめた。いよいよ始まったのだ。最後の戦いの幕が切って落とされたのだ。
　神々の陣も揺れを免れなかったが、あらかじめ結界を張っていたので、実害はなかった。その軍勢はじっと息をひそめて、周囲に荒れ狂う破壊を見守っていた。破壊のあまりの凄まじさに皆、しんとして声を出す者もない。慌てふためいて逃げ惑う者もなかったが、それはむしろ恐ろしさに身が竦んでしまったと言うべきかも知れない。
　やがて、地面の揺れが弱くなったが、山の崩れる音はしばらく続いた。谷や沢の土砂がまだ流れている。それでも、一時の大音響に比べれば、騒音も次第に落ち着いて来ている。

　アルテミスは隣接する岩に座り込んでいるアテナとヘラクレスに目を向けた。
　アテナは長槍を肩にかけたまま彼女と視線を合わせると、眼で笑ってみせた。その顔が心なしか蒼ざめてみえる。陽気なヘラクレスでさえも、口を開こうともしなかった。

　下界の様子はまだ定かではない。山腹になびく砂塵が雲のように山肌にまとわりつき視界を遮っているからである。風がぱたりと止み、砂煙が落ち着いて視界が晴れた時、テッサリア平原はすっかり変わり果てていた。
　大地の激動は、美しかった草原を巨大な爪で引き裂いていた。無数に走る大小の亀裂からは、地の底の毒を含む瘴気が吹き出し、草の海を茶褐色に枯死させた。同時に、大きな裂け目からは見るもおぞましい魔物たちが溢れ出て来た。それらの発する咆哮が平原に響き渡った。

　ヘルメスは、オリュンポスの麓に張った陣に立ち、魔物の軍勢を睨みつけていた。彼の軍勢は戦いに備え、弓や槍を構えたまま、じっと命令が下されるのを待っている。その数、およそ五千。皆選りすぐりの兵ばかりである。誰一人逃げようとする者もいない。
　皆、この戦いの意味を理解しているのだ。敗北すれば、即ち破滅と死が待っていることをである。オリュンポスの破滅は、一つの世界の死であるからである。
　ヘルメスは、敵勢が満潮のように膨張する様を眺めながら、静かに剣を持つ手を差し上げた。天を突く剣に、東からの曙光が反射して黄金の輝線を散らせる。
　一瞬、辺りがしんとなった。
「点火っ！」
　剣が振り降ろされると同時に、怒号にも似た叫びが野を走った。
　直後、平原のあちこちから火の手が上がり、大きな火輪を形成して魔物の群れを包囲した。あらかじめ配置していた兵が、手筈通りに火を放ったのだ。
　その火は通常の火ではなかった。鍛治の神ヘパイストスの炉から取った消すことの出来ない炎である。それが、東西南北の風を司どる精たちの送ってくる強風に煽られ、炎の嵐と化した。風が狂ったように吹き荒れ、火柱を舞い上げる。燃えさかる火炎が、草の波を焼き尽し、地割れた土を焦がし、霧のように漂っている瘴気を滅却する。
　火輪の陣はじりじりと包囲を縮め始めた。
　魔物の軍勢に動揺が起こった。最外縁に居た狼や蛇の姿に似た悪鬼の群れが、けたたましい悲鳴を上げながら逃げ惑っている。ヌルヌルした粘液性の皮膚を持つ両生類的な怪物や、不定形の姿をした影のような魔物でさえも、本能的に火を怖れて後退している。ハルピュイアが上空に群れながら、耳障りな声でわめき散らした。

　あちらこちらの地面がゆっくりと盛り上がる。土塊が持ち上げられ、ばらばらと崩れる。それは小山のような高さになり、ようやく全貌を現した。
　文字通りの巨人である。大きさは、キュクロプスより四、五倍大きい。外見は岩で作った荒削りな人型のようであるが、一種異様な雰囲気を漂わせている。何か生命とは相容れない異質さが、感じられるのである。本来生命なき者が、生命を持っているような矛盾である。
　出現した巨人は全部で五体であった。彼らはのろのろした動きで地中から足を引き抜き、大地に一歩を踏み出した。
　ずぶずぶずぶと、地面がその重さに耐えかねて泥のように沈み、巨人のくるぶしまで埋まる。地面が大きく波打った。一歩踏み出す度に、ずしんという重い震動が走る。その進行方向にいる魔物たちが悲鳴を上げながら逃げ惑う。逃げ遅れた者は敵味方関係なく、踏み潰された。
　炎の障壁でさえも、その進行を止める事は出来なかった。ヘパイストスの炎も、巨人の皮膚をわずかに焦がしただけであった。炎は巨人の大足にあえなく踏み消され、魔物の軍勢に出口を与えた。
　オリュンポス軍の火攻めによって怒りにかられていた魔物の群れは、開けられたばかりの隘路に殺到し、我先にと飛び出した。
　彼らの怒りと憎しみは、眼前に展開しているヘルメスの軍にぶつけられた。たちまち、彼らは先行する巨人たちを追い越し、ヘルメス勢に向かって雪崩れこんだ。

「構えっ！」
　ヘルメスの凛とした命令が飛ぶ。この騒然とした状態の中でその声が隅々にまで行き渡る。兵たちは投槍を構えるか、あるいは弓に矢をつがえて次なる命令を待ち受けた。
　既に怪物の群れは手の届く程の距離にまで来ている。人狼、キュクロプス、蛇人間や蛙人間が居る。それらの顔、とくに狂気に染まった眼の色と、真赤な口とがはっきりと見える距離である。吐き気を催すほど醜悪な者どもが、津波のように押し寄せてくる。
「てぇ！」
　ヘルメスの命令と同時に無数の槍と矢が放たれ、魔物の群れに雨霰と降りかかった。先頭を走る者どもがばたばたと倒れる。後続がそれらを踏み込えてやってくる。
　槍と矢の雨は間断なく続き、数え切れぬ敵を倒したが、それでも勢いを止めることは出来なかった。
　ヘルメスは圧倒的な数の敵を前にぎりぎりと歯をくいしばった。既に彼我の距離は五十歩に満たなくなっている。
　最前列の兵たちは、長槍のふすまを作り、頑丈な楯を並べて激突の瞬間を待っている。それでも魔物たちは、憑かれたように突っ込んで来る。敵勢から聞こえる耳障りなときの声が一気に高まった。
　異様な音が響いた。
　鋭い長槍が異臭を放つ肉塊を貫き、楯がその重い衝撃を支える。一つの槍で、およそ二、三の敵を串刺しにしたであろう。あちこちで槍の折れる音や、楯の破られる音がした。ついに、衝撃が、支えられる限界を越えたのだ。
　魔物たちは牙をむきながら仲間の死体を踏み越え、オリュンポス軍に向かって襲いかかった。
「ひるむなっ！」
　ヘルメスは、そう叫ぶと剣を振りかざして敵中に身を投じた。

　悪夢のような戦いであった。
　最前列の兵士たちは勇猛果敢に奮闘したが、敵勢の怒濤のような攻撃にたちまちのうちに分断され、呑み込まれてしまった。
　ヘルメスの眼の隅で赤い霧が飛び散った。味方の兵の一人が、キュクロプスに捕まり生きたまま引き裂かれたのだ。真っ赤な血潮と一緒に、五臓六腑が空に舞い、地に落ちると魔物の群れに貪り食われた。
　別の兵は、蛙人の咽喉笛を剣で突き刺したまま身動きが取れなくなり、人狼に頭を噛み砕かれてしまった。これも死肉に群がる者どもに呑まれて消えた。
　既にヘルメスの周囲には一人の味方も見えなかった。
「くそっ」
　悪態とともにに剣をなぎ払う。襲いかかって来た魔物の群れが、草を斬るように両断される。その切れ味の鋭さは、かまいたちのようである。さすが、ヘパイストスが鍛えた剣だけのことはあった。
　一呼吸遅れて、紫色の毒血がほとばしり、醜い肉塊が飛び散った。
　魔物の群れが怒り狂い、ヘルメスに向かって押し寄せた。彼は剣をもう一度一閃させると、隠れ蓑の呪力を使った。彼の姿がかき消すように見えなくなった。
　目標を失った怪物たちが唖然とした。
　剣が風を切る音がして、再び紫色の血が噴水のように宙に舞った。七つの首が地面を転がった。
　怪物たちが気圧されたように後退する。その群れの間を目に見えぬ風が走り抜け、血しぶきの雨と死をふりまいた。

　その頃、重々しい地響きが、ゆっくりとオリュンポスの山に向かっていた。
　気狂いじみた殺戮と喧騒の渦中を、あたかも雑草の上を歩くかのように、巨人たちが進んで行く。恐怖にかられて逃げ惑う敵味方を押し潰しながら、感情のない石像のようにただ前へ前へと進んでいる。まさに移動する岩山である。

　突然、オッサ山の麓から破れ鐘のような鬨の声が起こり、山野に低い共鳴をもたらした。冥界の軍勢である。ラダマンテュス率いる死者の国の軍勢が、怒濤のように山を駆け降り、敵味方入り乱れる戦さの渦の中に突入して来たのである。
　その軍勢は一つの楔となって混戦の嵐を分断し始めた。
　魔物の群れに動揺がさざ波のように伝わった。冥府の兵は既に死者であった。だから、死を恐れることなく戦う事ができるし、身体を傷つけられても、痛みを感じることも血を流すこともない。首をはねられ、五体をバラバラに裂かれて、ようやく土に還るのである。まさに不死身の軍団であった。
　さしもの怪物たちも戸惑いを隠せなかった。キュクロプスは死者たちに食欲をそそられないらしく、見向きもしないし、人狼や蛙人たちも血を見ることが出来ないので敬遠しがちである。
　生き残っていたヘルメス勢は、冥府軍と合流すると勢いを盛り返して反撃に転じた。
　けれども、魔物の軍勢はまだ数においていまだに優勢を保っていた。既に、巨人を始めとして数千の怪物どもがオリュンポス山に取りついており、平原に残る軍勢も一時期よりは大分少なくなっていたが、それでもまだ一万近い軍勢が残っている。
　その軍勢の出来るだけ多くを平原に釘づけしておくことが、ヘルメス軍の役目だった。彼らは敵勢を分断しつつ駆け回り、乱戦に引きずり込んだ。

　既に、朝も終わろうとしていた。空には、厚い雲がかかっていて太陽の位置を見定める事はできなかったが、雲を透して明るさの気配を探ってみると、およそ中天にさしかかっている頃合いである。

　アルテミスは、ちらと北方の山々に目を移した。気が静かで、妖しい気配は感じられない。どうやら、敵はテッサリア方面からのみ来襲してきたようだ。
　彼女は再びテッサリア平原で行われている戦いに目を向けた。このオリュンポスの頂きからは、遙か下界の戦いが一望のもとに見降ろせた。兵士一人一人の顔までも見分けることができるほどである。
　こうして見る限り、オリュンポス軍はよく戦っていた。既に、この山にもかなりの数の敵勢が侵入していたが、それに倍する主力の軍勢をよく麓に引きつけている。
　第一線を突破した巨人たちは、山腹に踝をめり込ませながら、のろのろと斜面を登っていた。その重みに耐えかねて、土砂や岩がずるずると崩れ落ちるのもお構いなしである。時々、それが斜面を大きく削りながら山津波となって、味方の怪物たちを呑み込んだ。

　戦いの中心は、次第にオリュンポス山中へと移って行った。
　山中の木々や岩に紛れていたオリュンポス勢は、敵が近づいてくる頃合いを見計らって巨岩や枯死した大木を雪崩落とし、さらにその頭上に矢を雨霰と降らせた。
　怪物たちは耳障りな叫び声を上げながら、我先にと逃げ惑ったが、多くの者は岩と矢の雨から逃れられなかった。さらには混乱の中で谷底に落ちる者や、仲間に踏み殺される者が続出し、攻め手の軍勢は収拾のつかない程に分断された。
　その混乱には目もくれず、歩く岩山のような巨人たちがしずしずと登ってくる。
　再び岩と枯木が投下され、矢が射かけられる。しかし、巨人の足は止まらなかった。さしもの巨岩や大木も巨人の堅い皮膚に激突すると、まるで軽いパンでも叩きつけた時のようにそれらを跳ね返したのである。

　山腹のそこかしこには、人の背丈ほどもある大瓶が満々に酒をたたえたまま、無造作に置き捨てられていた。大瓶からは、甘美な芳香が漂い流れ、辺りの空気に不思議な呪縛を与えていた。その匂いを一嗅ぎしただけで、その者の脳髄を狂わせ、ありとあらゆる物を夢幻の中に埋没させてしまうほど魔的な芳香である。酔気とでも表現したらよさそうな、感覚の麻痺を誘う気が発散されている。
　大瓶の配置された場所は、人目につきやすく、適度な風が流れて芳香を麓の方に漂わせるように選ばれていた。
　醜悪な怪物たちは、酒の匂いを嗅ぎつけると先を争って大瓶に群がり始めた。まるで蜜に群がる蟻のようである。皆が殺気立ち、他を押しのけながら酒を奪い合う。噛みつき殴り合い、耳障りな咆哮で威嚇し合うので、忽ち酒瓶を中心として争いの渦が出来てしまった。
　酒には彼ら興奮を誘う成分が含まれていたようである。それとも、思考を狂気に変える呪いのようなものであろうか。
　魔物たちの争いが野火のように広がっていく。酒瓶がいくつも割られ、狂気の雨が甘ったるい香りと共にばらかまれて、匂いの霧となって寄せ手の軍勢を包み込む。匂いがますます強くなると争いも激しくなり、殺し合いやむごたらしい共喰いがあちこちで行われた。
　あの恐ろしい巨人たちでさえも例外ではなかった。強い芳香に誘われた巨人が、まるで夢遊病者のようにぎこちなく酒を口にすると、酒神の仕込んだ狂気がその中に侵入したのである。狂気は、徐々にその巨体に広がり、見境いのない戦いの衝動に狩り立てた。巨人達はこうして互いに戦い始めた。
　巨人達が互いの堅い身体に岩のような拳で殴りつけると、凄まじい音が走った。取っ組合って地に倒れれば、山の斜面が波打ち、あちこちに亀裂が走ったり、土砂崩れが起こったりする。さらには、その巨体が斜面を転がる度に、多くの木々や兵たちが無惨にも押し潰される。その圧死する兵でさえも、狂気の酒を浴びて血の宴に気を取られたまま逃げようともしない。
　やがて、巨人たちの乱闘し続けている尾根がその重さと衝撃に耐え切れなくなり、まるで腐った肉が骨から落ちるように、ずるりと山肌を脱いでしまった。崩れた土砂が、全ての物を呑み込みながら麓へと駆け下る。無数の魔物たちと三体の巨人がそれに呑まれて消えた。酒瓶も木々も、尾根ですらも跡形もなく消え失せていた。
　残った巨人は二体だけである。怪物の群れもまだ少し残っている。彼らは酒の呪縛から解き放たれたらしく、再び頂上を目指して進み始めた。
　別の尾根から攻め上がっている軍勢にも、待ち伏せと狂い酒の綱を逃れる者たちが居て、互いに合流し合い群れの数を増やしながら、進撃を続けていた。
　丁度五合目の辺りであろうか、待ち構えていたオリュンポス軍と彼らの間に再び激しい戦闘が繰り広げられた。

　その戦場の後方、地震による亀裂が生々しく残っているテッサリア平原のほぼ中央に、数百頭はあろうかという数のグリポンが、身じろぎもせず石像の群れのように並んでいた。その群れから発せられている闘気にはただならぬものがあった。
　その中の一頭の背に、夜よりも黒い甲冑を身に着けた男が、悠然と跨っていた。男は、戦いの成り行きを鋭い目つきで眺めていた。その腰には恐ろしい妖気を帯びた剣が吊り下げられている。
　男の視線に宿っているのは、情容赦のない冷酷さと死の色である。表情はない。けれども、その無表情な顔は、かえって全身にまとわりついている邪悪さを際立たせていた。
　氷のような眼が針のように細くなった。
　男は鞘から黒い剣を抜き放つと、グリポンの群れに号令を発した。
　グリポンたちが大きく翼を開き、羽ばたいた。突風が吹き荒れ、小石が飛び交った。彼らの鋭い咆哮が轟き、天を震わせる。数十頭が一団となり、次々に地上を離れ、空に舞い上がる。
　ハルピュイアたちが奇声を上げてその後ろからついてくる。
　彼らは黒い雲のような集団となり、オリュンポスの頂きに向かって進み始めた。

　ここは、戦場のはるか上、オリュンポス山頂である。
　頂上を守る兵は千にも満たない。アルテミスとアテナの子飼いの配下だけである。他の者は、ヘラクレスとともに下方の戦場に赴いている。旗色の余り良くない味方を救援し、登ってくる巨人を迎え撃つためであった。
　アルテミスは頂きの断崖に立ち、空を翔けてくるグリポンの群れに目を凝らした。
　頂上に吹く風が一段と強くなった。彼女の美しい銀の髪が大きく波打った。女神は身じろぎもせず、じっと攻め寄せてくる軍勢を見つめていた。
　凍てつくような強い視線が、アルテミスにははっきりと感じられた。グリポンの群れの中心から二つの冷酷な眼が、鋭い槍のように彼女を貫いているのだ。まだ彼らの距離はかなり離れており、グリポンでさえ芥子粒のようにしか見えないのに、その視線だけは、はっきりと感じられる。
　アルテミス女神は、邪悪な視線から目をそらすと、アテナを振り返った。
　アテナ女神も心なしか蒼ざめて見えた。唇の色が紫がかっているし、頬にもいつもの血の気がない。勇猛さで知られている戦女神も、例の視線の恐ろしさを感じ取ったようである。
　アテナはにこりと笑みを作った。
「父上が腰を上げられたようですね」と、頭上を仰いだので、アルテミスも空を見上げた。
　オリュンポスの頂きを中心に、むくむくと雷雲が膨れつつあった。稲妻が閃き、雲間を走る。ごろごろと雷鳴を轟かせる。
　アテナとアルテミスの姉妹は、じっと動かずにグリポンの群れを見つめていた。群れが次第に近づいてくる。それらが、雷雲の傘にすっぽりと入った。
「くるぞ」と、アテナが呟くように言った。
　一瞬、辺りがしんと静まり返った。
　空気が激しく帯電しているのが感じられた。身体中の毛穴が粟立ってくるので、肌から空気の異常を感知できる。雷雲の色が、赤く変化したように見えた。
　その瞬間、目の眩むような閃光が世界を覆った。光が辺りに充満し、真白い無色の光景に変える。数千数万の稲光が、瞬時に散ったのである。
　赤味がかった雲間から、稲妻の雨が降り注ぎ巨大な光の柱を作った。青白い色から紫がかった光までも飛び散る。それはがグリポンたちを焼き、紅蓮の炎に変えた。
　ほんの一瞬の出来事であった。
　わあああっ！と、味方から歓声が上がった。
　見ると、グリポンたちは黒焦げの肉塊と化し、煙の尾を引きながら地上に落下して行く所である。数瞬前まで確かに存在していた大群はない。それでも百頭ほどのグリポンが残っており、こちらに向かってくる。
　味方の歓声が止まった。
　グリポンの群れの先頭に異様な妖気を発している人影があった。黒甲冑の武者である。既に、暗黒の剣を抜き放っている。その男に導かれ、グリポンたちが速度を上げて突っ込んできた。

　アルテミス女神はぎゅっと銀の弓を握り締めた。顔からはすっかり血の気が失せ、眼の輝きだけが鋭い。彼女は矢をつがえて、先頭のグリポンに狙いを定めた。
　彼女の配下の森の狩人たちもそれに倣って矢を構え、アテナの兵たちも各々槍を手にした。誰もが食い入るように空の一点に目を凝らした。
　グリポンの姿が急速に近づいてきた。巨大な翼を一杯に広げ、風を切りながら、一直線に滑空してくる。彼らとの距離がつまった。グリポンの羽の一本一本までもがはっきりと見分けられほどである。
　アルテミスの弓弦が唸った。それを合図にして矢が一斉に放たれた。

　グリポンの群れが散開すると同時に、黒甲冑の男が宙に身を投げ出した。空気の歪みがいくつも走り、刃となって矢の群れを向かい撃った。一条の輝線が突き抜けたが、それは黒い影を貫く直前、銀色の炎を上げて砕け散った。
　男がそのまま風を切って一直線に突っ込んできた。
　アルテミスは、素早く、次の矢をつがえた。
　一瞬早く、黒い影が着地し、旋風と化して味方の中に飛び込んだ。
　刹那の静寂があった。恐怖の沈滞している静けさである。味方の兵士が一人残らず戦慄しているのが感じられた。続いて、幾つもの断末魔の悲鳴が上がり、血しぶきが吹き上がった。その悲鳴を中心とし
て、兵たちが退き、遠巻きに輪を作った。皆、恐怖にかられていて、自ら攻撃を仕掛けようという気配はない。ただ、こわごわと輪の中心を窺っているだけである。
　輪の中心には、黒甲冑の男が鮮血のしたたる黒い剣を下げ、不敵に笑いながら立っていた。足許には、まだけいれんしている死体が幾つかころがっている。
　その間に、生き残ったグリポンやハルピュイアたちが、一斉に舞い降りてきて、オリュンポスの軍勢と戦闘を開始した。

　黒甲冑の男がゆっくりとこちらに歩いてくる。
　アルテミスは唾を呑み込んだ。
　アテナは兜をかぶり直すと、右手に槍を構えた。左手には鏡にように磨きぬかれた盾を持っている。彼女は、隣のアルテミスにちらと目配せした。アルテミスが弓を構えたままうなずく。それが合図だった。
　二人は同時に左右に分かれ、二つの疾風となった。
　弓弦の唸る音が響いた。
　男の剣が旋風を起こした。銀の爆発が起こり、彼を呑み込む。二の矢、三の矢と輝線が走り、爆炎が大きく膨れ上がった。
　そこへアテナ女神が突っ込み、炎の中の敵を長槍で貫いた。速射砲のような突きである。中から空気の歪みが鞭のように走り、炎を散らした。アテナは槍の穂先で歪みを受け止め、ふわりと飛び下がった。わずかな煙を残して、男の姿が消えている。
　アテナ女神は左右を見渡した。
　後ろから、アルテミスの弓弦が連続して鳴り響いた。アテナ女神の右手にある岩から銀の炎が噴き上がる。そこから黒い影が飛び出し、疾風となってアテナに向かった。アテナも槍を構えて突っ込む。
　二つの風が真っ向からぶつかった。

　黒い剣が閃き、槍の穂先を斬り飛ばした。
　男の目がにっと笑い、身体が横に流れる。そこを銀の閃光が突き抜けてくる。閃光はアテナの鏡の盾に反射し、男の頭を撃った。黒い兜が砕け散る。その身体が跳ねて、地面に倒れこんだ。
　アテナ女神は、穂先のない槍を捨て、剣を引き抜いた。
　男がゆらりと立ち上がった。額からどくどくと血が流れている。その黒い目が、真っ青な顔のアルテミスを睨みつけ、そしてアテナに向けられた。
「ゼウスの娘たちにしては、よくやるものだ」と、しわがれ声で言った。
「覚悟っ！」と、アテナ女神が叫びざま男に斬りかかった。
　背後から再び銀の閃光が放たれた。アテナの剣をかわしながら男の身体が沈む。その影を突き抜けた閃光が盾で反射したが、今度は虚空に散った。男の腕がアテナ女神の右腕に絡みついた。旋風が巻き起こり、ばきっと骨の折れる音が響いた。同時に重い衝撃音とともに、アテナが跳ね飛んだ。
　智恵の女神が大地に倒れこんだ。その鎧が大きくへこみ、腕が不自然に捻じ曲がっている。

　男はもはやアテナには目もくれず、弓を構えているアルテミスを睨みつけた。二人とも微動だにしない。重苦しい沈黙が辺りを支配している。互いの息の緒さえも聞き取れるほどである。
　黒い剣先がわずかに動いた。
　その瞬間、銀の矢が放たれた。
　黒い剣がなぎ、閃光を砕いた。爆発音とともに、先ほどよりも二倍も三倍も大きな炎が上がる。黒甲冑の男が、爆風に乗って飛び下がった。アルテミスは次の矢を放ったが、紙一重でかわされた。
「ふんっ！」という気合が響き、黒い剣が閃いた。先ほどよりも遥かに大きな衝撃波が、轟音とともに大地を削り、女神に向かって押し寄せてきた。
　アルテミスは銀の弓を盾にした。球形の光の幕が彼女を包み、その衝撃を受け流す。
　衝撃波の通過と同時に、黒い影が飛び込んできた。
　ずんと鈍い音が響いた。
　男とアルテミスは互いにもたれかかるように立っていた。よく見ると、男の肘が女神の弓を折り、そのみぞおちに埋まっている。
　アルテミスが目を大きく開いたままゆっくりと崩れ落ちた。
「はあ、はあ、はあ…」と、男は肩で荒く息をした。
　その黒い甲冑も、兜はなく、肩当が飛び、籠手が焼け、あちこちが傷ついたり破れたりしていた。凄まじい戦いの跡である。彼は気絶しているアルテミス女神を眺めた。止めを刺そうか否か迷っている様子である。何かが、その決断を躊躇させているようだ。
　アルテミス女神は、まるで死んだように動かなかった。
　黒甲冑の男は、女神に背を向けると、聖域に通じる門に向かって歩き始めた。