「銀の矢」

　二十、ヨグの力

　そこは絶対的な虚無が支配する沈黙と暗黒の世界であった。距離や時間の尺度などは全くない。重さもない。上下左右すら分からなかった。その世界に、ぽつんと青白く光る小さな領域が存在していた。青い珠が穏やかに闇の進入を防ぎ、そこにいる二人の姿を浮かび上がらせていた。
　月と森の女神アルテミスと、李凱永である。二人とも満身創痍であった。どちらかと言えば女神の方が重傷であったが、幸いなことに腹部と背からの出血はほぼ止まっていた。ただ、大量の血液を失ったので、彼女の肌は文字通り雪のような白さとなっていた。
　銀の女神は、男の方に弱々しく手を伸ばした。
「…リュカイオン」
　李凱永は、彼女の手を取り、そっと握り締めた。女神の手は冷たかったが、子供の手のように柔らかかった。
「あ、アルテミス様。お、おらは…」
　女神は、にっこりと笑って見せた。
「…私なら、もう大丈夫です。オリュンポス神族は滅多なことでは死なないのですよ。それよりも、リュカイオンの傷はどうですか？…痛みますか？」
「おらなら、もう、平気ですだよ。このくれえは、怪我のうちに入らねえだ」
「危うく、あなたの頭を吹き飛ばしてしまうところでした」
「おらだって…」と言いかけて、李凱永は笑った。アルテミスも同時に笑みを作った。
「ははは、もう、言いっこなしだ」
「そうですね」
「ところで、あの剣はどうなったべか？…それに、ここは一体？」
　銀の女神は、男の手を握り返した。
「ここは世の果ての彼方です。あの剣の破滅に巻き込まれそうになったので、ヨグの力を借りて、ここに避難してきました。…そう、もう、全てが終わったのです」
「…ふうん」
「それが、何か？」
「う、うん。…きっと、おらの役目も終わっただなあ…と思って」
　アルテミス女神は、李凱永を静かに見つめた。李凱永も女神の目を見つめた。そこから、とても温かい感情が伝わってきた。気がつくと、彼は女神から目を逸らすことができなくなっていた。李凱永は女神の顔が近づくのを感じた。そして、二人は唇を重ねた。
　ゆったりと時が流れた。
　やがて、銀の女神は唇を離すと、男の胸にそっと顔をつけた。
「このような気持ちになったのは初めてです」
「おらもだ」
　李凱永は、ややためらいがちに女神を抱きしめた。
「私が、リュカイオンに恋していることは、父母はおろか、もうオリュンポス中の者が知っています。そして、私にはあなたが必要なのです」
「おらでいいだか？」
「他に望みはありません」
　李凱永は、女神の髪の毛に頬を寄せた。とても、よい匂いがした。

　再び、青い珠が輝いたかと思うと、二人は荒涼とした山の頂に立っていた。オリュンポス山である。既に黄昏時となっていて、西の空に太陽が沈もうとしていた。
　ひゅうと一陣の寒風が吹き抜けていく。
　人気はない。先ほどまで、激しい戦いが繰り広げられていたはずなのに、その痕跡が全くなかった。オリュンポスの軍勢はおろか敵の姿もない。破壊された神域も見えない。ただ、ごつごつした岩肌と融け残った雪渓があるだけである。
「…?」と、銀の女神が怪訝な顔をした。
　かすかに連続的な雷鳴のような音が聞こえてきた。
「あれは、何でしょう？」と、アルテミスが空の一点を指差した。
　翼が太陽光を反射してきらりと光った。間違いない。旅客機であった。それがゆっくりと雲間に消えていった。（註二十Ａ）
「…あいやあ」
　李凱永は呆然として立ち尽くした。

－終わり－

---------------作者註-------------------------
註二十Ａ：旅客機？
これは、我々現実世界の産物である。ということは、アルテミスがヨグの呪力に不慣れだったために、戻るべき所を間違えてしまったのであろう。
ちなみに、このお話では、世界の果ての虚無空間を通じて、いくつもの並行世界が時空を別にして存在しているという設定であります。（もう一度、十四章の註を見てください）ちょっと、物語を通じてだけでは、分かりにくかったかな？…反省。
第一章で李凱永が飛ばされた時は、虚無空間を一瞬で通過したのだな。